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31 ランウェイで貴男に嫁ぐ

 そうしていよいよ年に一度のショーが幕を上げる日がやってきた。  あれ以後も幾度となく得体の知れない嫌がらせ行為は続いたものの、(ひょう)は相方の(ジォウ)にも隣室の鐘崎(かねさき)紫月(しづき)にも一切弱音や愚痴を漏らすことなく稽古に励んできた。  振り返ればあっという間だったように思う。初めて立つ大きな会場を前に、今までのことが走馬灯のように脳裏を巡る。  何も考えずに最愛の人に嫁ぐ幸せな一人の人間を演じ切ろう――大きく深呼吸をして気持ちを落ち着ける。ランウェイの舞台袖に立つ(ひょう)は、一皮も二皮も剥けたプロとしての表情に満ち溢れてもいたのだった。  有名どころのアナウンサーによってショーの始まりが告げられる時刻がやってきた。今まさに各事務所の誇りを賭けた舞台の火蓋が切って落とされようとしている。誰にとっても緊張と高揚が最高潮の特別な瞬間といえた。  (ひょう)らの出番はフォーマル部門の五番目、ランウェイ上では三番目の事務所がショーの真っ最中である。 「いよいよ次の次だ! (イェン)はランウェイの先端真下の袖で待機。(ひょう)は反対側の袖から登場だ。二人とも落ち着いてがんばれよ!」  (ひょう)の側には事務所代表のレイと、応援に駆け付けてくれた鐘崎(かねさき)紫月(しづき)らも居てくれるので心強い。既にメイクも済んで、あとは着替えのみだ。(ひょう)はステージ袖に設られた仮設のフィッティングルームに戻って衣装に着替えようとした時だった。 「――――――!?」  新調された真っ白なタキシード――。  つい先程メイク前に確認した時は確かにトルソーの上で輝いていた。  ところが――だ。  なんと、その真っ白な衣装のところどころに濡れた泥が飛び散っており、それを目にした瞬間に(ひょう)は驚きで一歩も動けなくなってしまった。 「う……そ……、ど……して」  咄嗟に脳裏を巡ったのは誰かによる嫌がらせだ。  だとしても、まさか本番直前でステージ衣装を汚されるなどとはさすがに思いもよらなかった。  出番までは既にあと数分だ。  今から洗ってプレスする時間などあるわけもない。 「(ひょう)、そろそろ袖で待機だ。着替えは済んだか?」  フィッティングルームのカーテンを開けて入って来たレイもまた、硬直状態の(ひょう)と泥まみれの衣装に絶句――一瞬驚きの声も上げられなかったほどだった。 「レイさん? どうかしたのか?」  異変を感じ取ったのだろう、鐘崎(かねさき)が後から声を掛けながら覗き込む。紫月(しづき)はステージ袖で進行具合を見つめながら『そろそろ出番だ』と手招きしている。  四番目の事務所のステージが終わりに近付くにつれて未だ袖に姿を現さない(ひょう)を心配してか、マネージメント担当の(リー)(リゥ)、メイク担当でレイの一人息子でもある柊倫周(ひいらぎ りんしゅう)らが集まって来た。フィッティングルームの光景を目にし、皆一様に驚愕したのは言うまでもない。 「……なんて酷えことをしやがる」  レイが般若のような形相で唇を震わせる。だが、本番直前の今この時、誰の仕業だなどと言っている暇はない。レイはもちろん、(リー)鐘崎(かねさき)らもプロがステージに立つことの意味を痛いほどに熟知している。 「……どうする……(イェン)は既にランウェイの先端だ」  相方の(ジォウ)にこのことを伝えようにも既に時間が足りない。仮に伝えられたところで汚れた衣装はどうにもならない。  プロ中のプロが揃いも揃って一瞬身動きできない非常事態――そんな中で咄嗟に打開策を口にしたのはまさかの(ひょう)であった。 「――時間がありません。このまま出ます!」 「出るってお前……この泥まみれのスーツでランウェイに立とうってか?」  レイが珍しくも情けない声を出す。 「それしかありません……。僕に――考えがあります。ただ――何も知らない(イェン)さんが驚かれると思いますが……でも(イェン)さんならきっと――」  事態を把握してくださるはず……!  (ひょう)は言うと同時に素早く泥まみれのスーツを纏ったのだった。

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