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第1話 仮面の内は忘れてしまえ
【第一話 仮面の内は忘れてしまえ】
愛は呪いだ。流行りのアニメの言葉が浮かぶ。
一年生を襲おうとした上級生に拳を振り抜いた。成程、嫌がる下級生に無理矢理手を出す理由を愛だと宣うのなら、それは確かに呪い足り得るだろう。
頬骨とぶつかった手の骨が痛む。相手は、その比ではないようだが。
足元に転がったままの上級生を見下ろし、俺は痛む手をひらひらと振った。また目立つところに怪我を作ってしまった。
背後から駈け寄る足音に、そこはかとない怒気と小言の気配。はあ、と溜息を零して、最初に正当防衛としてもらっていた打撃痕を誤魔化すように、無事な左手の甲で頬をぐいと拭った。圧迫されて痛みだけが走る。
「またお前か、神崎 」
先頭に立っていた三年の風紀委員が呆れたように俺の名を呼んだ。軽く頭を下げて返事をする。面倒なのはこの人ではないのだ。俺の反応を見て、先輩は諦めたように足を進める。地に伏せたままの上級生を起き上がらせる為に俺の背後へと進んでいった。
先輩の後ろにいた悟 が眉を顰めて俺を睨み付けてくる。いつも俺を見ると小言ばかり。そんなの誉 にだけ向けていればいいのに。風紀委員でもないくせに、こんな場所まで出しゃばってくるなよ。
苛立ちを紛らわす為に後頭部をがしがしと掻く。あー、と低い声を漏らして、自己弁護の為に口を開いた。
「強姦未遂の現行犯。殴られたから一発殴った」
それだけ、と付け加えて口を閉じる。詳しいことは被害者の生徒が証言してくれるだろう。校舎の方へ連れていかれる背中を見送りながら、最低限の情報を落とした。それにしても、喋る度に頬が痛い。
治安が良いのか悪いのか。この学園は、窃盗や万引きみたいなトラブルはうんと少ないのに、色恋に纏わる事件は飽きるほど起きている。特に今回みたいな強姦の現場じゃ、応援の到着を待ってから割って入ってたんじゃとても間に合わない。別に正義の味方になりたいわけじゃないけど、目の前で人が虐げられてるのを見ているだけなのも気分が悪い。だから単身殴り込んでる。深い理由なんてない。
それが問題視されてるのは俺には関係ないことだ。やめさせたいならまず俺の目の前で事件を起こさせるな。
「忠義 」
子を窘める親のような声色で悟が俺の名を呼ぶ。そういやあのアニメのキャラと同じ名前してるなと今更のように気が付いた。脳裏に浮かんだ与太話を追いやって、なんだ、と視線だけで先を促す。
「何度言えば怪我をしなくなるんだ」
別にしたくてしている訳でも。反論しようと口を開きかけて、殴り返す口実にわざと殴られている事実に思わず口を閉ざした。
いくら強姦の現場でも、未遂じゃどうとでも言い逃れの手段はある。お坊ちゃまが多いこの学園なら尚更。そんな状態でこっちから手を出せば余計に相手に有利な状況証拠だけが揃っていく。だからって被害が出るのを待つ馬鹿はいない。
被害者から引き離して、挑発して、一発殴らせたら後はこっちのもん。正当防衛って名目で済む程度に痛めつけて、駆け付けた風紀委員に引き渡して、はい、おしまい。一年の時からそんなことを繰り返していたら、何時の間にか風紀委員に加入させられていた。それ以降も大したお咎めがないってことは、つまりそういうこと。体のいい狂犬扱いなんだろう。
実家じゃ番犬。ここじゃ狂犬。どっちにしろ犬っころ扱いには変わりない。
それで、目の前のこいつはお利口さんな忠犬。品行方正。成績優秀。こうして目敏く揉め事を嗅ぎ付けては、あれはするなこれはするなと喧しい。お目付け役のつもりなのか知らないが、どうせあいつに関わることじゃなかったら、俺があいつの番じゃなかったら気にもしなかったくせに。
まだ契約を交わしていないはずの背中の印がずくりと疼いた気がした。ああ、気分が悪い。こんな印、抉り取ってしまいたいほどに。
「手の甲もどれだけ傷付ければ……」
これ以上ここで口論をしていても埒が明かないと考えたのだろう。悟が強引に左腕を掴んできた。怪我をしている右腕を掴まない気遣いが今は鬱陶しい。
「俺が治癒魔法を使えないのは知っているだろう。保健室で治療を――」
ぐい、と引っ張られた瞬間、保健室、治療、という単語に反応して頭が真っ白になる。薬の匂い。花の香り。無機質な部屋。大量の本棚。頭が痛む。冷たい床。広がるシーツ。息が苦しい。大丈夫だと宥める声。降り注いでいる水滴。
一瞬で脳裏に流れ込んだ大量の映像に、込み上げる吐き気を我慢できない。思わず俺は悟の手を勢いよく振り払う。その拍子に、俺の尖った爪先が悟の柔らかな手のひらの肉を裂く感触。目の前に鮮血が飛び散った。
「ぁ……」
ざあ、と一気に血の気が引いていく。寒気が襲うのと共に平衡感覚が狂い、一瞬世界が暗転する。俺は二、三歩踏鞴を踏んで地面に尻餅を着いた。視線は悟の手から外せないまま、ぜえぜえと荒い割に浅い呼吸を繰り返す。打ち付けた尻の痛みも殴られた頬の痛みももう感じなかった。俺が悟を傷付けた。その事実にまた吐き気が込み上げる。
ただ、それよりもするべきことがある。カラカラに乾いた咥内に込み上げる酸味をどうにか呑み下して、俺は口を開いた。
「あ、ごめっ、ちが、怪我させたかったんじゃっ……、おれ、」
単語が繋がらない。相変わらず引いてくれない吐き気を堪える為に口元を両手で覆いながら、支離滅裂に謝罪を繰り返す。うざったい。過保護。そう思っているのは本当だ。でも、だからって、傷付けたいわけじゃない。
悟は驚いたように少し硬直してから、ゆっくりと、それこそ、人慣れしていない野生動物に近寄るように、俺の腕が届かないギリギリの距離にしゃがみ込んだ。……こんな時でも冷静で、気遣いが上手いところが、きらいだ。
悟が俺に向けて手のひらを向ける。忠義、と俺の名を呼びながら、逆の手で取り出したハンカチでそっと血の跡をなぞっていく。マジシャンみたいな手付きだな、なんて場違いなことを思う。うっすらとした血の跡が残るだけになったそこには、もう傷ひとつない綺麗な皮膚しかなかった。
「落ち着け。知っているだろう。魔法は使えなくても、治癒能力は高いんだ。これくらいすぐに消える」
治癒の加護。悟が生まれつき持っている能力。当たり前のようにそれを見せつけられて、俺はか細い息を吐いた。そうだ。ごちゃごちゃしていた脳内が少しずつ整っていく。
その能力故に、本来なら荒事は悟の方が適任だった。だけど、そうしたら俺は何をしたらいいか分からなくて、無理矢理拳を握り締める役を奪い取った。悟は頭も良かったから、右腕でもやっていればいいと、誉の隣を押し付けた。自分がそこに在れないことへの嫉妬と安堵に、日々苦しめられることになると知っていながら。
俺と悟と誉の中で、一番成績が良いのは悟だ。勉強も出来て、有事への適正の高い能力を持っていて。適材適所なんて言い出したら、全部があいつの独壇場だ。俺のいる場所なんてない。誉の隣に立つのに、番以外の理由がない。抗いたいのに、拒みたいのに、どうしても隣(そのばしょ)が欲しくなる。これが番の本能なら、そんなもの、消えて無くなればいいのに。
先程までとは違う理由で吐き気が込み上げる。じわりと生理的な涙で視界が歪んだ。弱い。抗いきれず、受け入れきれず。中途半端だ。今だって尻拭いを悟にさせている。きっと心配そうに俺を見ているだろう悟の視線が、俺を責めているような錯覚がした。向けられる視線が痛い。辺りを歩き回る風紀委員のじゃりじゃりという足音が時間を進める。俺と悟以外の生き物の気配に集中して、馬鹿らしい被害妄想を頭から追い出す。
意味もなく反発しては二人に面倒を掛けて、面倒を見られて、それに甘やかされて生きている。分かっているのに、何時までも自立できずにいる。三人にも、一人にも、成れずにいる。
引いた血の気は未だ戻らない。くらくらと視界がブレた。倒れかけた俺の肩を悟が強く掴んで、力の抜けた首に引っ張られてがくりと頭が揺れる。ああ、こんなこと前にもあったな。……前?前って、何時の話だ。また頭に靄が掛かりそうになったところで、悟の声がそれを切り裂いた。
「頬だけでもいいから、風紀室で……、手当、してもらえ」
一つ一つ慎重に組み上げていくように悟が珍しくたどたどしく言葉を紡ぐ。いつもハキハキ喋るのに。肩に添えられた悟の手を振り払いたかったが、生憎その手に自分の手を重ねることしか出来なかった。
触れる悟の手が熱い。……いや、俺の手が冷たい、のか。
ふう、と長く息を吐いて、明滅する視界を閉じる。吐き気は、大分マシになった。しばらくじっとしていれば立てるようになるだろう。貧血。正確には貧血じゃないんだったか。医療従事者でもないからどうでもいいけど。
「……わかったよ。落ち着いたら、風紀室に行く。それでいいだろ」
意識を呼吸に向ける。深く、深く。吐くことに集中する。吸えなくていい。吐けば自然と酸素は入ってくるから、今は、吐くことだけに意識を向ける。血の気の失せる感覚も、過呼吸にも似たこの症状も、もう慣れっこだ。慣れるくらい、日常茶飯事になった。何時からか。
何時からだったか、と思考を傾けようとしたところで、また悟の声が割り込んできた。
「誉から、夜に部屋に来いと。無理そうなら俺から連絡しておくが」
「いい」
反射的に言葉が出ていた。その勢いに、自分でさえびっくりして思わず目を開く。は、と自嘲の様に一つ息を吐いて、こめかみに滲んでいだ冷や汗をぐいと拭った。視界は、安定している。
「どうせ少し休んだら治る」
今度こそ悟の手を振り払って、俺は無理矢理立ち上がった。また血の気の引く感覚。まあ、まだ動かない方がいいのは自分でもわかっていたから許容範囲。お前は自分の仕事に戻れよと、無言のままで悟に手をひらひらと振った。返事も聞かないまま背を向ける。
今口を開いたら吐き気が戻ってきそうだとか、顔色を見られたら一発で痩せ我慢がバレるだろうなとか、この見栄も見透かされてるんだろうなとか、考えながら校舎の角を曲がる。痩せ我慢。見栄っ張り。上等だ。だって、この学園に入ってからそれしかしていない。それ以外に、呼吸の仕方を知らない。
人気のない校舎の陰で、外壁に凭れながらずるずると座り込む。冷たい外壁に、せっかく戻りかけた体温が奪われた。逃げるように自分の身を強く抱きしめる。緩く立てた膝の上に腕を乗せて、そこに額を預けた。
寒い。冷たい手に腹の中を掻き回されているようで気持ち悪い。どうして俺ばかりという他責と自業自得だという自責の声が頭の中でガンガン響いていた。うるせぇなあ、と小さくごちる。どうせ誰も聞いてない。縮こまって、その声が小さくなるのを待つ。じわり。疼く番のいない印が、また自己主張を始めた。まるで俺を戒める呪縛みたいに。
俺と誉は番だ。番ではあるが、番の契約自体は、まだしていない。しないと死ぬようなものでもないし、番関係で先代が荒れたから、俺たちは誉が学園を卒業するまでは保留ということになっている。
俺と、悟と、誉は幼馴染だ。誉は長く続く呉服屋の跡継ぎで、俺と悟はその傍系。傍系とは言ってもかなり血統的には離れていて、親戚というにも少し憚られるくらいには遠い。だから小さい頃は、そうとは知らずにただの幼馴染として一緒に育てられた。
呉服屋を立ち上げた創始者が兄弟とその従兄弟だったとか、詳しいことはそのくらいしか今でも知らない。立ち上げから十代近く経っているらしいから、まあ遠縁なのも当然だろう。正月の席でもなきゃ話題にならないし。
俺と悟の家は、基本的に本家である誉の家系の両腕。その時の当主に従うのが基本的には長子に定められた家のルール。ただ、まあ基本的には、ではある。俺たちはたまたま悟と誉が同い年で、俺がその一つ下で、それぞれ一人っ子だから自然と後継を受け入れていた。長子以外が継ぐことも、当主と年が離れていることも無いわけじゃない。悟の父さんは誉の父さんの十近く年上だけど秘書をしている。悟の父さんは次男で上にも下にも兄弟がいたけど、適正と本人たちの希望で円満にそう決まったらしい。ここ何代かは時代柄、無理に家を継がせることは少ないと聞く。番でさえ、なければ。
俺も、番でさえなければ逃げられたのになあ。
言葉にならない泣き言を溜息と一緒に吐き出す。
番だからと言って、契約しなくてもいいし、恋仲にならなくてもいいし、仕事上のパートナーとして在るだけでもいいし、家を出てもいいし、束縛がある訳じゃない。でも、それを決めるのは、俺じゃなくて、誉だ。
本家と傍系。番契約。その単語にまた脳裏に光がチラつく。
あ、これ良くないやつ。誤魔化すように空を仰げば、後頭部と外壁がぶつかってごつりと鈍い音を立てた。後頭部禿げたらどうしよう。このくらいじゃ禿げないか。それよか汚れの方が酷そうだ。
馬鹿みたいな現実逃避をする。空が青い。遠くに見える真っ白な入道雲が、少しだけ夕立の気配を匂わせていた。
「あー……いてぇ」
ぶつけた後頭部のせいにして、痛いなぁと自分を慰めるようにぽんぽんと抱きしめた二の腕を叩いた。大丈夫。まだ立てる。励ますように摩って、呼吸を整えた。また下手くそな仮面を被る準備をすれば、ほら、粗暴な風紀委員の神崎忠義クンの出来上がり。
不機嫌そうな顔は体調不良の裏返し。睨み付ける眼光の真相はただの寝不足。風紀の狂犬を怖がってる奴らにそう喧伝してやったらどんな顔をするだろう。小さく笑って、今度こそ風紀室に行く為に重い腰を上げた。
もう膝は笑わない。視界は良好、思考はオールグリーン。本当に?さあ、どっちでもいい。スラックスのポケットに手を突っ込んで、かじかむ指先を誤魔化しながら風紀室へ向かう。湿布貰って、手の甲消毒して、そしたらもう部屋に帰ろう。シャワーを浴びて、少し休めば、きっと誉の顔を見ても少しは我慢できるだろうから。
暑い。暑い。独り言を零しながら、冷や汗とも何とも言えない汗をまた拭った。どうせ最後には足は誉の元へ向かうしかないのだから。
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