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※3/22 J.GARDEN59頒布本 サンプル 【第二話 運命ならば愛せない】  名前を呼ばれた気がして目を開いた。  差し込む西日が眩しくてもう一度目を閉じる。光源から顔を逸らそうとしたところで、首にずきりと痛みが走って動きを止めた。動かそうとしていた右手も痺れていて、これは久方ぶりに余程可笑しな姿勢で眠っていたらしいと悟った。じわじわというむず痒い感覚に包まれる右手を腿の上に投げだして、投降の姿勢を取る。  項垂れていた首を慎重に動かして正しい位置に戻す。まだ完全には痛みは抜けないが、起き抜けよりはマシになった。深く息を吐く。脱力した身体に合わせてデスクチェアがぎしりと鳴いた。  視界の端に通知を知らせるスマホが映ったが、どうせ悟か誉だ。どっちにしろ誉にはこの後会うんだし、と考えたところでふと今が何時なのかが気になった。自由な左手でスマホを手繰り寄せる。最近は日も伸びたしな、とオレンジ色のの光を反射するスマホの画面を眺めながら考える。どうせ長時間は眠れない体質だ。そう時間は経っていないだろう。ロック画面に表示されたデジタルの数字は案の定18時過ぎの表示。  夕飯前に顔を出して、さっさと用事を済ませて……。適当にタイムスケジュールを組み立てながら、右手をぐーぱーと動かしてみる。痺れは大分解けたようだった。その右手で首筋を揉み解して首の調子も確認する。特に問題はなさそうだ。 ◆ ◆ ◆  ポン、という軽快な音が目的階への到達を知らせた。早すぎて心の準備もさせてくれない。一応誉も環境委員会の委員長だから、役持ちとして一般生徒より上の階を用意されているっていうのに、一階からここまであっという間だ。気持ちは未だ一階にいるのに。 基本、この寮は上階に行けば行くほど、上級生または役職持ちの生徒が暮らしている。比例して部屋は広くなり設備も充実しているらしい。生徒会長の部屋なんてどんだけ広いんだろうな。  エラーにならないかと期待しながら薄っぺらい財布をリーダーに翳せば、ピ、と軽薄な電子音とカチャリと鍵の回る音がした。はあ、と悪足掻きの様に溜息を一つ。足取りは重い。  無断で入ることに文句は言われない。むしろもっと顔を見せろと催促されることもあるくらいだ。誰が用事もないのに来るか、と思いながら玄関でサンダルを脱いだ。しゃがみ込んで揃えてしまうのは、もう癖だ。我ながら育ちの良いことで。  不思議なことに、寮なのに誉の部屋は実家の匂いがする。実家と言っても誉の住む本邸の香りだ。俺と悟の部屋は今誉の部屋の周囲に移されているので、寝起きは基本本邸ですることになる。そこと同じ空気がするから、どうにもこの部屋に来ると闘争心が削がれてしまう。  本当の実家の方が落ち着かないんじゃないか、なんて、家具ごと全部入れ替えたせいで空っぽになった、元、自分の部屋を思い出す。洋室のこの部屋に、和室ばかりの本邸の面影なんてないのに。  来たぞ、と声を掛けながら奥に足を進める。玄関の靴の数を見るにおそらく悟はいない。さっきの今で顔を合わせるのは気まずいが、誉と二人きりというのもやはり、居心地が良くはなかった。  不意に鼻先をぬくい香りが掠めていく。ひどく馴染みのある和風な香りだ。冷えた廊下をぺたぺたと進んでいく。 足音が聞こえたのだろう。キッチンからひょこりと誉が顔を出した。 「随分遅かったじゃない。先に夕食作り始めちゃったよ」 言葉の割に表情は緩やかで棘はない。ないように見えて、その実内心が読めないのが誉の怖いところだ。今もどう思っているんだか。 夕飯は食っていかないぞ、と俺が言う前に、ひたりと頬に誉の手のひらが触れる。嫌に冷たいそれが不気味で俺は口を閉じた。 「腫れは引いてるけどまだ熱を持ってるね」  料理が一段落したらそっちに行くからソファで座って待ってな、と指差される。素直に従うのがなんだか癪で、コンロに向かった背中に向かって用件は何だとせっついた。がっつかないの、と言いながら誉は鍋を掻き混ぜている。魔法で掻き混ぜないのは誉の拘りだ。いつも余裕そうなその態度が鼻に付いて仕方がない。どうでもいい誉の拘りを覚えている自分も、なんだか女々しく感じて余計苛立ちが募った。  噛み付こうとして言葉が思い浮かばずに口を閉じる。代わりにこれ見よがしに溜息を吐いて、俺はソファに浅く腰掛けた。嫌いたいのに嫌いきれない。この部屋にいると曖昧な態度ばかり取ってしまうのは、妙に落ち着くこの部屋の匂いのせいなのか。柔らかすぎるソファは居心地が悪いはずなのに、立ち上がって部屋を出ていく選択肢は俺にはなかった。 肘掛けに体を凭れさせて、心地よい四肢の重さに身を委ねる。どうしようもなく力が抜けた。誉がどうでもいい世間話をしている。ガチャガチャと響くのは食器の音だろうか。それすら耳馴染みの良いオルゴールで、俺は無防備に、うん、と返事をした。 「……どうせまた碌に食べてないんでしょ。家に連絡してレシピ聞いておいたから、後で食べな」  好きだったでしょ、うちの肉じゃが。  誉の声。それだけを認識して、髪を梳く指先に懐いた。まだ俺の部屋が自分の家にあった頃、誉の家の夕飯が肉じゃがだと知ると食べに行きたいとよく駄々を捏ねたっけ。誉も俺の手を引いて両親に一緒にお願いしに行って、三人一緒がいいって悟も引っ張り出して。何の綻びもなかった頃。あの頃の香りが、俺を満たしていた。  幸せで、不安も無くて。じゃあ、それが壊れたのは、誰のせい?  ……俺に、番の印が現れた、から。 「幸せな夢だけ見ておいで。ここにはお前の悪夢は追ってこないから」  痛み始めた頭を優しく撫でる手のひら。あたたかくないのに。やわらかくもないのに。なのに、こんなに安らいでしまう。今はもうその理由なんてどうでもよかった。考えたくなかった。  逃げられるのなら逃げてしまいたい。どうせいつか追い付かれる悪夢なら、少しでもその猶予を伸ばしたかった。戦う勇気なんてない。立ち向かう覚悟なんてない。誤魔化しでいい。まやかしでいい。この瞬間、呼吸が出来ているなら、今はもう他に求めるものはない。そう思っていたのに。 「ほまれ……?」  離れていく誉の指先が切なくて、瞼を閉じたままで彼の気配を探した。彼が身を引いたことによる空気の流れが、代わりの様に頬を撫でる。  そこで初めて何時の間にか瞼を閉じていたことに気が付いて、傍らに誉の体温があったことに気が付いて、それが失われていくことに、酷い喪失感を感じて。まるで、あの日の様に、たった一人置いていかれてしまったような絶望感が心を覆った。ああ、寒い。  ふに、と額に何か柔らかなものが触れる。途端にそこから温もりが広がるようで、俺は知らずに手を伸ばしていた。冷えていたことさえ無自覚だった指先があたたかな何かに包まれて、そこにも柔らかな感触。熱が灯されるようなその感触に、俺はもう一度微睡みの中に落ちていく。 「お前が知らず捨ててしまったものを、少しでも取り戻せたらいいのだけど」  ねえ、そんな切ない声をさせているのは誰。俺のせいならばそう言ってほしかった。俺以外の何かなら、俺がそれを退ける牙になるから。  指先に力を込める。僅かなその動きですら、逃げ出してしまったらと思えばこわかったけど。それでも。だって、本能じゃない。番になる前からずっと大切だった。どうしたら証明できるのかわからないけど、信じてほしくて。そこには嘘はなくて。  ねえ。これが愛なら。どうして俺たちは真っ直ぐに向き合えないの。  幼子の様な涙が一粒、頬を伝った。 ◆ ◆ ◆ 【第三話 手折る】 「お前、若と番になった後どうするつもりだ」  親戚連中よりもうんと早く、身内から刺された。こんなんだったら車の中で誉の言葉の続きを聞いておくんだった。返事を誤魔化すようにまだ湯気の立ち昇る茶に口を付ける。熱い。それだけ。うっすらと渋みを感じた気がするけれど、何処までが本物で何処からが記憶の補正なんだか。味なんて、もう随分前からぼんやりとしか感じていない。 「父さんは……あまりうまくいかなかったから。良い手本にはなってやれないが……、若と悟は同い年だろう」 「親父はさ」  熱さに痺れる舌で無理矢理言葉を遮った。俺と誉の番契約に、その名前を持ち出すな。 「親父は。……父親になる前に、ちゃんと夫になるべきだったんだよ」  残りのお茶を流し込めば今度は喉が痛んだ。親父に何か言われる前に立ち上がり本邸に繋がる廊下から遠ざかるように進んだ。自分の部屋に帰っても、どうせ親父の戻る先も本邸なのだ。だったらこの家にいた方が顔を合わせなくていい。 それなりに整えられた庭が見える縁側に辿り着いて足を止める。ひりひりと悲鳴をあげる舌を空気にさらした。ああいやだ。まるでこれじゃ本当に犬じゃないか。 つい二か月ほど前の連休に帰省したばかりだというのに、庭は知らない花で埋もれていた。幼い頃に庭のツツジの蜜を吸って遊んでいたのを思い出す。程々にしないと腹を壊すと大人に怒られて、いつの間にか俺たちの関心は庭から離れていった。この庭も、昔はもっとこぢんまりとしていて、母が一人で手入れをしていたのだったか。手を掛ければ必ず愛情を返してくれるから。母の言葉を思い出す。あれは果たして花にだけ向けたものだったのか。 不意にざり、と土を踏む音がして、反射的に濡れ縁まで身を乗り出して、庭の奥を覗き込んだ。最初に、焦った表情をした家政婦さんが視界に入る。その奥に、夏らしく涼しげなワンピースに薄手のカーディガンという装いをして日傘を差した母が立っていた。 いないと思って気を抜けば今度は立て続けに出くわす。今年のお御籤は運勢が悪かったんだったか。父よりも余程久方ぶりに顔を合わせる母に向けて掛ける言葉を探す間に、混乱する脳内が余計なことを考える。 「おかえりなさい、忠義」  先に言葉を発したのは母だった。名前を呼ばれて、そろそろと視線だけを母へ向ける。目が合った母はいつになく穏やかな表情をしていた。無意識の内に入れていた肩の力を抜いて、庭の突っ掛けに足を入れて真っ直ぐに母と向き合う。母は大層眩しそうに空を見上げて、元気にしている?と問い掛けてきた。春休みには会えなかったから、前に顔を合わせたのは年末年始だったはずだ。夏の日差しのせいなのか、以前より顔色の白さが際立ったように感じる。 「暑い日が続くでしょう。昔から忠義は暑いのが苦手だったから……」 「……別に。学校も寮も空調はちゃんとしてるし、普通」 「そう。それなら、いいのよ」  今日は調子がいいの。と母は続けた。調子がいい日はこうして庭を歩いて、時折手入れの真似事をして。語りながら母が優しく撫でるその花の名を俺は知らない。俺の知る夏の花なんて向日葵ぐらいのものだ。生憎あの派手な花はこの庭には咲いていないようだった。 花を撫でる手付きと同じ手で、よく頬を撫でられたのを覚えている。俺がまだ小学生か、それ以下かそれくらいの頃。泣いてもいないのに執拗に頬を撫でられて、泣いた赤子をあやす様に大丈夫と繰り返し繰り返し。それこそ、何かの呪いの様に。  悪い連想を断ち切るように、幼い頃の記憶を手繰り寄せる。昔はもっと、明るい笑顔の人だった。穏やかよりも朗らかが似合って、だけど、困ったように笑う顔ばかりが浮かんでくる。それでも大切にされていたのは本当だ。今は会話も減ったけれど、確かに愛されていた。愛されて、全部、あれも、愛されていたから。……あれって、なんだ。  ずきんと頭が痛む。 「母さんは、どう。体調とか、……」  とか、の続きが思い浮かばない。少しの沈黙が落ちて、母はけれどそれを気にも留めていないように別の花を撫で始める。手付きはずっと同じままだ。汗がすぐに噴き出るような暑さなのに、その真っ白な指先に温度がないようだった。まるで幽世のもののようにすら思えるくらい。  そんなはずない、と首を振って全てを暑さのせいにした。こんなに暑いから変なことを考えるんだ。早く会話を切り上げて、屋内に入ろう。長居は母さんにとっても毒に違いないから。 「そうね。年始に体調を崩してから、少しずつ良くなってきたのよ。最近はこのお散歩も、」 「忠義」  家の奥から俺を呼ぶ声がした。考える間もなく顔が声の主の方を向く。俺がやってきた居間の方から現れたのは、和服に着替えた誉だった。思考より先に動く身体に嫌気を覚える前に、がしゃん、と強く何かを叩きつける音がして俺は肩を震わせる。  母の持っていた日傘が俺と母の間に転がっていた。 「……そう。貴方もやっぱりそうなのね。あの人の子供ですもの。悲しい子。憐れな子」  母の手がぐしゃりと花を握りつぶす。はらはらと舞い落ちる花弁が赤かったら、さながら血に見えただろうか。今の今まで咲き誇り愛でられていたそれは、地面に落ちた途端に醜く萎れたように感じられた。咲き誇る姿こそが唯一でそれ以外は無用なのだと告げる様に、残酷にも母の足がその花弁を踏み潰す。母は、そんなことには目もくれていないようだけど。 「私のせいなの、ねえ、違うわ。今からでもやり直すべきよ。かえりましょう、一緒に、終わらせなくちゃ。ねえ、ねえ、そうでしょう!?」  突然暴れ出した母を家政婦さんが拘束する。誉が、誰か、と声を張り上げて、それを聞きながら俺は地面に膝を着いた。息が出来ない。  ぜえぜえと荒い呼吸音が聞こえる。なのに息が吸えない。苦しい。苦しい。やめて。両手を喉に当てる。何もないと分かっていても苦しみから解放されたくて、ぐ、と爪を突き立てた。 暑かったはずなのに震えるほど寒い。身体がぐにゃりと丸まっていく。体の芯から凍っていくように動きが鈍くなる。額から伝い落ちてくる汗の感覚が気持ち悪い。世界が揺れる。母さんが泣いてる。俺の頬に伝っているのは、これは、 「忠義」  誉の声。頭に何かが被せられて視界が陰る。首に爪を立てる両手を、誉の手が包み込んだ。これは、この手は、傷付けちゃいけない。震えるばかりで緊張状態だった指先を温かい誉の指先がなぞると、魔法の様にふにゃりと腕ごと力が抜けた。  まだ呼吸は荒い。気持ち悪い。吐き気ではない。この不調の原因に心当たりがないことが気持ち悪いのだ。いや、わかっている。番契約と、誉と、母さんと、親父と。中学生の頃に記憶が曖昧な時期がある。病気療養だとか説明されていたその期間に、何かがあった。それが原因だ。でも、その中身を思い出せない。  思い出せないままじゃ、俺はずっとこのままなのに。変われない。囚われたまま。逃げ出せない。何も選べない。 いつかきっと、手遅れになる。  遠くから聞こえる母さんの悲鳴交じりの叫びを聞きながら、俺に残されたタイムリミットを考える。俺は今、崖の際にいるのだ。 ◆ ◆ ◆ 【第四話 冷たく惨めなシーツの海に】  その現場に、途中からではあるが俺も駆け付けていた。過去に真砂が怪我をしている現場に鉢合わせたこともあったから、余計に真砂とその番の行く末が気になったのかもしれない。怪我の初期対応をしていた時、真砂は自分が番に大切にされている自覚がないようだった。傍から見れば、ずっと周囲に威嚇していて独占欲塗れの番だったのに。  雨降って地固まる、ではないが。あの事件以降二人の距離は縮まったのは遠目に見ても分かった。何しろほぼ毎日一緒に登下校しているので。  番になったら、あんな風に執着されて、囲われて、それが愛だと受け入れられるのだろうか。愛されていると、幸せだと思えるのだろうか。真砂が怪我をしていたあの日、真砂は苦しそうだった。あんなに愛されているのに、苦しんでいた。真砂がたまたま番の愛を受け入れられたから、今の彼は満ち足りているように見えるのか?それならば、受け入れられなければ、この愛は、一生苦しいもののままなのか?それに縛られて、番から、契約から逃れられずに生きていくしかないと。俺は、この苦痛から、解放されることなんてないのだと。そう諦めるしかないのだろうか。  この苦しみこそが愛だなんて、そんな風には思いたくない。苦しいだけの愛なんて、認めたくない。いらない。欲しくない。  込み上げる感情に、泣き出してしまいたかった。番でさえなければ、逃げられたのに。目を逸らしていられたのに。  俺は、誉が、好きだ。  安心する。穏やかな自分でいられる。甘えられる。呼吸が、できる。でも。 「番になんて、なりたくなかった」  番として愛されるのは、苦しい。 番じゃない俺自身を見てくれと叫びたくなる。同時に、自分の気持ちさえも疑いたくなる。この気持ちは、番だから生まれた物なんじゃないかと。  俺たちの家は、昔から番契約に縛られてきた家だ。番だから想い合う。親愛であれ、恋愛であれ、それが当然という家だった。でも俺は、当然にしたくない。誰かに決められたから誉を好きになったんじゃない。家だとか、血だとか、そんなもののせいになんてしたくない。俺が俺として生まれたから、誉を好きになったのに。誉が、次期当主だろうが、この学園で出逢った一般生徒だろうが、きっと魅かれていた。だって、彼の側でしか、俺は普通でいられない。  押し寄せる頭痛に一度しゃがみ込んだ。幸い、廊下には誰もいない。涙より先に溢れそうだった鼻をず、と啜って、人気のいない校舎に耳を澄ました。遠くで喧しい部活の掛け声。吹奏楽部の甲高い演奏。騒音がぐるぐると頭の中を駆け巡った。気分が悪かったそれも、段々と自分の中に溶け込んでいく。風で木が揺れて、がたがたと窓が震えている。日常の音。意識が自分から離れていくと、不思議と思考がすっきりし始める。頭痛もすぐに引いていった。  この箱庭にいる内は、問題を先送りにしていられると思っていたのに。目の前に切り立つ崖があることも、あと数歩でそこから転がり落ちる距離だということも、もう、いい加減、自覚しなくちゃいけない。モラトリアムは有限だ。  のっそりと腰を上げる。未来に選択肢なんてない。だけど俺は、それすら自分で選んだのだと言える自分で在りたい。  今までより、少しだけ視界が開けた気がした。誉と話をしよう。悟にも相談したいことがある。選ばされた未来ではなくて、選んだ未来だと、胸を張れる自分になりたい。 ◆ ◆ ◆  押し寄せる吐き気を宥めながら、同時に溢れそうになる涙を誤魔化す為に瞳を閉じた。誰かが泣いている。苦しいと、助けてと、愛してほしいと泣いている。その慟哭に、いつだって耳を塞いできた。  だって、苦しいのはいつものことだった。誰も助けてくれなかった。当然だ。だって俺は、一度も助けてなんて言ってない。自業自得だ。  だって恐ろしいのだ。無償の愛が恐ろしい。それは俺を傷付ける。理由は知らない。でも痛くて苦しいものだということだけは知っていた。これもきっと、忘れてしまった記憶の空白に由来するのだろう。  なのに、番ではない俺を愛してほしいと願っている。誉に、悟に、親父に、母さんに。ただの神崎忠義という俺を見てくれと駄々を捏ねている。それを伝えることもしないくせに。  矛盾だ。恐ろしいと思いながらそれを求めている。求めているのに跳ね除けている。恐ろしいから。恐ろしいから、こんなに苦しい。  思考が取っ散らかっている自覚はあった。それでも湧き上がって止まらない。これはきっと、今までずっと見ない振りをしてきた反動だ。蓋をして、ないものとして扱ってきた俺の感情が、やっと居場所を見つけて暴れ回っている。  今まで無意識下で押さえつけていた膨大な感情の波に翻弄されて、何だか頭が熱くなってきたような気がする。知恵熱という奴だろうか。額を冷たいシーツに懐かせる。しばらくするとシーツ越しにじんわりとフローリングが温くなっていった。  苦しいな。あちこち悲鳴をあげる身体を肯定してやる。宥めるように、慰めるように二の腕を摩った。もう、眠ってしまおう。今は一度休んだ方が良い。今はまだ、こわいことから逃げていい。目が覚めたら、きっともう逃げられなくなっているから。  自分自身を寝かしつける為に、ぽんぽんと指先で腕を優しく撫でるように一定のペースを刻んだ。差し込む夕日から逃げるように、シーツにより強く顔を押し付ける。自分の鼓動と呼吸の音だけに集中すれば、意識が落ちるのはあっという間のことだった。 ◆ ◆ ◆ 【第五話 貴方の手で呼吸を止めて】  財布を持つ手が少し震えていた。臆病者め。自嘲して、冷え切った指先を温めるように逆の手で握り込んだ。どちらの手も緊張で冷たくなっていたからあまり意味はなかったけれど。  俺に呪いを掛けたのは、きっと他ならぬ俺自身。だからこの呪いを解くのも、俺の手でしかありえないから。  いつも通り、無機質な機械音で開錠される扉を、俺は断頭台に上るような気分で潜り抜けた。  明かりが付いていない。部屋に入ってまず思ったのは、玄関からリビングに掛けての電気が一つも付いていないということだった。珍しいこともあるものだ。俺を呼ぶ時は大抵リビングで待ち構えているのに。 うっすらと光が漏れている誉の部屋の扉を見詰める。玄関の扉が開いた音は聞こえていただろうに、出迎えにも来ない。出迎えを強要している訳ではないけど、誉は手が空いていればまず顔を覗かせる。そこもいつもと違う点だった。  本当に誉がこの部屋の中にいるのか。そう疑問に思うくらいの静寂を保つ空間を乱してはいけない気がして、そろそろと靴を脱いで端に揃える。悟の革靴は見当たらないから外出しているようだ。多分、誉がそうするように指示を出したんだろう。そうしてまで今、俺を呼び出す理由とは何だろうか。少しだけ考えて、結局答えを見つけられずに立ち上がった。  扉の前に立っても、相変わらず気配はない。一つ深呼吸をしてコンコンコン、とノックを三回。誉。名前を呼ぶ声は情けないほど酷く擦れていた。 「入っておいで、忠義」  誉の声。声色は、いつもとそう大差ないように感じた。ゆっくりと扉を開けば、誉は手前のデスクチェアに腰掛けてこちらを向いている。誉の部屋に入るのは珍しいことではないが、いつもは壁際に置いてあるスツールが見当たらなくて部屋を見渡した。模様替えをしたという風でもないのに。 「この前汚してしまってね。今日はベッドにお座り」  俺の思考を読み取ったかように誉の指先が彼のベッドを示す。寮に備え付けのベッドはどの部屋も同じだ。好みで寝具を持ち込む生徒もいるが、俺も誉も学園のものをそのまま使用している。つまり、このマットレスと俺の部屋のマットレスは同じ。どうしても悪夢と結びついてしまうそれに腰掛けるのは気が引けて、立ったままで構わないと申し出を断る。  俺の言葉を聞いた誉が目を細める。誉の瞳から急に温度が失せたような気がして、別に悪いことはしていないのに思わず身を竦めた。 「忠義」 「立ったままでいい。要件を、」 「忠義。座りなさい」  つい、と指先がもう一度ベッドを指差した。  ああ、こういう時に思い知らされる。誉が主人で、俺が従者なのだと。番になってもきっとそれは変わらないのだろうな、と、重い足を踏み出しながら思った。俺の種族はヒトだ。誉は、神使の狐。番契約は基本的に、ヒトの血の濃い側が主、そうでない側が従魔として扱われる。その主従が直接社会的地位に繋がるわけではないけれど、ヒト側がパワーバランスの主導権を持つことが多いとは聞く。 俺たちは完全に逆だった。そういう家に産まれたからかもしれない。主人家系が絶対の主だと教えられて育ったから、今更番契約で主を気取れと言われても、やり方なんてわかりっこない。  誉の言葉の強制力に抗えずに、俺は怖々とベッドに腰掛けた。せめてもの抵抗で浅く腰掛けたが、着いた手のひらからも、座った尻からも、柔らかくて、弾力のあるマットレスの感触が分かる。脊髄反射のように吐き気が込み上げて口元を手で覆った。そうだ。この吐き気の原因を明らかにする為に、ここに来たんだった。  吐き気を堪える為に眉を寄せたまま、睨み付けるような眼差しで誉を見詰める。誉は感情の見えない瞳のまま、うっすらと微笑んで俺の様子を眺めていた。  その瞳に安堵する。優しくなんてされたくなかった。今優しくされたら、きっと寄り掛かる。一人で立てなくなることは、酷く恐ろしいことに思えた。だから、弱っている俺を甘やかすような言葉が無くて良かったと、心底安心したのだ。 「また眠れていないみたいだね」  立ち上がった誉が俺の目の前に歩いてくる。それをただ無言で眺めていることしか出来なかった。返事もしない俺の手を口元から退かして、目の淵を親指でなぞってくる。俺より余程手入れの行き届いた手。大切にしたいような、噛み付いてしまいたいような。歯茎が疼くような衝動を逃がしたくて、俺は瞼を閉じた。 「顔色も、ずっと悪いまま」  知ってる。それをどうにかしたくて、どうにかする為の手段を知りたくて、ここに来た。  頬に添えられたままの手。その手が欲しくて、手放したくなくて、自分だけのものにしたくて、だから足掻いてる。愛することも、愛されることも、苦しいだけなのかもしれない。それでもいいと、もう腹は括ったつもり。俺は、誉を選びたい。誉に選ばれたい。ただ、それだけ。  だけど、心の何処かで声がする。この愛は不幸しか呼ばないと。苦しみは終わらない。だから、捨ててしまった方が幸せになれるのだと。幸せに、ならないといけない。降り注ぐ声。この声は、 「俺を見て、忠義」 いつの間にか俯いていた顔を上げて、誉と視線を合わせる。一度満足そうに笑みを深めて頷いた後、誉は俺の肩を強く押した。  掛けられた力に抗う間もなく上半身が後ろへ倒れる。ぼすりと鈍い音を立てて身体がマットレスに沈んだ。起き上がろうとするのを押さえつけるように誉が俺の上に覆いかぶさる。逆光。誉の表情が見えなくなる。 「あ……」  人影のシルエット。肌に触れるシーツの感触。マットレスは衝撃を吸収するばかり。  見えない。表情が分からない。不意に首筋に触れる指先。暴れたいのに、逃げたいのに、身体が動かない。わからない。誉の意図が読めない。いや、この影は、本当に誉なのか?見えない。逆光で、何も。俺に触れているのは、誰だ。 「いや、だ……。やめろ、やめて……」  首に回された手に触れる。強く握りしめて振り解きたいのに、力が入らない。ただ指先を添えることしか出来ない。 「忠義」 『忠義』  俺の名前を呼ぶ声。二重になった声。誰だ。  柔らかい手のひら。少し体温の低い指先。暖かい手のひら。固い指先。  俺を撫でてくれた手のひら。俺の手を引いてくれた手のひら。 首に回る指先が強張っていく。力が籠められていく。ぽたぽたと頬が水滴で濡れた。息が苦しくなって、視界が歪んでいって、意識が遠のく。 今まで温もりしかなかった瞳の中に揺れる憎しみと愛情と、俺に降り注ぐ水滴。優しかった手のひらで、泣きながら俺の首を絞める、この人は。 「やめて、母さ……」 「忠義」 『大好きよ忠義。愛しているのよ、忠義。でも、このままじゃ、皆不幸になってしまうから』 「忠義」 『ね、忠義。その前にここで一緒に』  息ができない。苦しい。抵抗したいのに、振り払いたいのにどんどん腕からは力が失われていく。温もりと一緒に、体中から血液やら体力やら生きようとする身体の機能が流れてどこかへ行こうとしているようだった。  愛していると何度も俺に囁きながら母さんは涙を俺の目尻に落としていくから、まるで俺が泣いているような錯覚を覚えた。やめて。愛してるなんて言わないで。こんなに苦しいものが愛なら、俺を殺そうとするものが愛なら、俺はこんなもの、愛なんてもの、 「俺を見ろ、忠義!」

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