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第2話 序章2 遺体

「あとは、と……」  広い斎場に、一人だ。祭壇のある部屋は菊と百合と線香の香りで満ちている。馴染み深い香りだ。誰もがたまにしか着ない喪服を引っ張り出してきているから、ナフタリンの残り香もある。  そしてもう一つ、どこにでもあるわけではない香りがある。  死の匂い。  ここにいるのは、俺と遺体だけ。  高槻さんを追い出すように帰して一人になったのは、高槻さんに対する思いやりに満ちているからじゃない。誰かと話すのは苦手で一人でいる方が楽だし、物言わず動かない人と一緒にいられるなら、なおのこと素晴らしい。  生は不安定で、死は確かだ。  今日の故人はまだ若い男性。一人暮らしだが交流が広く、心不全で亡くなったとみられる時刻の三時間後には発見された。しかも今は冬だから、遺体の損傷は激しくない。  葬儀にあたってはまずは故人の生前の希望が優先される。最近は生前に細かなことまで決めて予約する人もいる。今回は若くして突然亡くなっているから、故人よりも遺族の意思が多く込められているだろう。  そんなことを考えながら柩に近付いた。背が高かったようで、既製品の中では一番大きいLサイズの柩に納まっている。白木の無垢材ではなく焦茶で洋風な、やや高級な柩だ。遺族のこだわりが伝わってくる。  黒曜石の数珠を取り出して軽く拝んだ。正式採用のお祝いに高槻さんがくれたものだ。高槻さんは自分で買ったタイガーアイの数珠を愛用しているが、俺はこだわりがないから会社支給のものを使い続けるつもりだった。  だが「これで辞めにくくなるだろ?」とかもっともらしいことを言われ、この数珠を渡された。いわく、若手はすぐに辞めてしまうから、半年間の試用期間を終えて正式採用まで残るだけでも珍しいらしい。  白い布の手袋を着けて柩の蓋を開けた。感染症対策の観点から、基本的には手袋をつけて遺体に触れることになっている。  現行法では死因を葬儀会社に伝える義務はないため詳細な死因を知ることができず、葬儀が終わった後に感染症が判明することもある。そのため、全ての遺体に対して感染症を前提に接する必要があるのだ。  どっしりと重い蓋の隙間からひやりと冷気が漂ってくる。死の匂いが強くなる。中には穏やかな表情に整えられた男性がおさめられていた。 「写真よりも良い顔してるな」  笑顔の遺影と、眠っているかのような死に顔を見比べた。丁寧に死化粧をされた何も言わない顔は、心を落ち着けてくれる。言葉を話す生者よりも余程良い。死の匂いは安定剤みたいなものだ。  死装束は襟を左前にした白地の経帷子。額には三角形の白い布、天冠を付けている。  白装束は旅装束で、死への旅路をつつがなく進むための支度だ。昔の人が旅に出る時に欠かせなかった白い手甲、脚絆を手足に付けていて、三途の川の渡り賃である六文銭を描いた絵も柩に入っている。  この人は家で亡くなったから、装束だけではなく死後の処置、いわゆるエンゼルケアも葬儀社が行っているはずだ。  たとえば、死後時間が経過した後に体液が漏れてしまわないように耳や鼻、肛門等に詰め物をする必要がある。この遺体は外から目立たないよう丁寧に整えられており、高槻の手技かもしれない。水無月がやることも多いが、上手い下手はともかく、抵抗はない。 「スーツの方が似合いそうなのに」  白の経帷子は少し物寂しい気がする。普段は身に着けないものを着せること自体が儀式的でもあり、異物感を醸し出し、生と死が全く違うものだという別離を感じさせる。  もっと普通のものでもいいのに、とも思う。スーツじゃなくて私服でも良い。生と死は地続きだ。  故人や遺族が望む衣装を着せることも多いが、今回は突然のことでその余裕もなかったんだろう。それか、遺族が昔からの風習を重んじているのかもしれない。死因が仕事にあるならば仕事に関わる服も着せたくないだろうし。  ドライアイスを補充するだけ、と心の中で言い訳をしながら柩に手を差し入れた。血色がよく見えてまるで生きているようで、だが、死の匂いしかしない。手の甲でそっと触れれば布越しでも冷ややかさが伝わってくるし、当然、全く動かない。 「寝てるみたいだ」  遺体に話しかける。乾燥した唇も化粧で整えられている。片手だけ手袋を外し、曲げた人差し指の第二関節でそっと、壊さないように、汚さないように、ほんの少しだけ、頬に触れる。物言わぬ唇は静謐に包まれていて美しい。  腕も、足も、その形のまま固定された皺の一つひとつも、全てがそのままで永遠に動かない。もっと柩が広ければ二人で入って眠ることもできるのに。  すんっ、と空気を吸いこむと、腐臭とも違う、死体だけにある、気持ちを落ち着けてくれる香りで満たされた。  同僚にこの香りの話をした時、そんな匂いはしないと怪訝な顔をされた。それ以来匂いのことは口にしないようにしているが、確かに存在する。身体自体の匂いや死臭というより、死の気配、みたいなものなのかもしれない。水無月にだけわかる匂いだ。  日本が土葬文化でなくて良かった。エンバーミング処理がされていたら、今巷を騒がせている遺体失踪騒動の犯人になっていたかもしれない。  エンバーミングは、遺体に消毒や保存処理等を施した上で修復を行い、長期保存を可能とする技術だ。アメリカ等、土葬が主流であったり、長期間の葬儀を行ったりする地域ではよく行われているらしい。  ドライアイスで冷やすよりも長い間、物言わぬ身体と過ごせるというのはあまりにも甘い誘惑だ。近年は日本でもたまに行われており、社長もエンバーマーの資格を持っているらしい。  死体は動かない。だから怒られずに済むし、殴ってこないし、話し相手になってくれる。  柩に顔を近付けすぎるとドライアイスによる二酸化炭素中毒のおそれがあり、実際に死亡事故も起きている。もっと近付きたいと思いながら顔を離した。でも、遺体の隣で意識を失って目を覚まさないのも悪くないのかもしれない。 「ずっとこのままでいてくれればいいのに」  遺体はどれだけ冷やして丁重に扱ったとしても徐々に傷んでしまう。それは冒涜だ。  その意味ではエンバーミングも申し訳ない気もする。中身を出し、異物を注入し、存在を強引に引き延ばす。遺族の別れの時間をたくさん取ることが出来るのは有益だが、遺体を傷つけるのも忍びない。 「髪も似合ってる」  切る時間もなかったのかそれが好みだったのか、肩よりも少し長く伸ばされた髪は一つに結われて胸の方へと流し、整えてある。暗めの茶色に染めてあるが、頭頂部のあたりは黒い。  乱れない程度に毛先をそっと指で梳けば、肌よりもなお冷たく感じられる。持ち上げた髪束に頬を擦り寄せた。やさしく肌を撫でてくれる感触が気持ちいい。  なにもかもが完璧で隙がない。脈打たない首筋を撫でる。少し前まで動いていて、だが今は動かない。  でも多分、いわゆるネクロフィリアではない、と思う。性欲も興奮もそこにはなくて、一緒にいると穏やかになれる。落ち着く。満たされる。ただそれだけだ。 「っと」  いつかは絶え間なく上下していただろう胸のなだらかな隆起に手を伸ばしてしまいそうになり、慌てて手を引いた。服を乱したいわけじゃない。生きていて、生きていなくなったものの、生の名残のようなものに惹かれるだけだ。  遺体を盗んだりはしないけど、俺の想いは薄汚い。  遺族にも遺体にも寄り添わない自分勝手な想いを捨てきれないまま手袋を付け直し、裏手のクーラーボックスからドライアイスを数個持ってきた。  ドライアイスを置く場所は概ね決まっている。腰の両側と脇腹。内臓のあたりが一番腐敗しやすく、臭いが出やすいからだ。季節や遺体の状況によっては顔の横に置く場合もある。  目立たないようにドライアイスを白い綿で包む。遺体の掛け布団をそっとずらし、基本に則って素早く取り替えた。  遺体に触れるのが苦手なスタッフもいるし、それでやめてしまう新人もいるが、水無月は最初から抵抗がなかった。帰宅した時にお清めの塩を使ったこともない。  事件や孤独死の現場に遺体をお迎えに行くこともある。  ばらばらになってしまっているものもあるし、腐乱し、強い臭気を放つものもある。強すぎる異臭に生理的な吐き気を覚えることはあるが、遺体そのものを見たくないとか触れたくないとは思わない。  形はいずれ失われるもので、元々生きていたものだ。どっちも結局、物体でしかない。  遺族と話すより、遺体に触れる方がはるかに好きだ。 「また明日、な。あ、もう今日か」  腕時計を見ればもう日付が変わっていた。遺体の様子をもう一度見てドライアイスが足りていることを確認してから柩の蓋を戻す。顔のあたりにある覗き窓越しにもう一度彼を見てから閉じた。手袋を外して捨てる。 「おやすみ」  返事がないのが心地良い。自分の声だけが響いて、足音がうるさい。彼が起きてしまわないといい。名残惜しく思いながら柩に背を向け、戸締りをしてホールを出た。  スタッフ用の控室で自分の荷物を回収し、コートを着る。窓も含めて一通りの戸締りを確認した。  正面は内側からしっかりと鍵をかけ、裏口から外へ。鍵を回せばがちゃりと重い音がした。ドアを引っ張って開かないことを確認する。  外はしんと静まり返っていて、暗闇に包まれていた。水無月以外のスタッフはもう全員帰っており誰もいない。葬儀場らしい荘厳な静けさにも思える。二月の深夜は酷く寒く、自分の白い吐息が暗い中でもはっきり見えた。  眩しい満月が空の上の方に浮いている。雲のない夜だ。斎場の敷地内の電灯は消えていて、星もうっすら見える。  冬の空は他の季節よりも少し透明な気がする。  メイン会場の建物の周辺は鬱蒼とした木々に囲まれていて、建物が見えにくい構造をしている。木々のシルエットが黒い。まるで鎮守の森だ。  この葬儀場は東京の郊外にある。水無月が勤める雪灯葬儀社直営の葬儀会館だ。会社設立の際に社長の狩屋音(かりやね)悠真(ゆうま)が自ら指示して最初に建てた葬儀場らしい。  都心からの交通の便は悪く、葬儀場の最寄駅まで小一時間ほどかかる。しかも小高い丘の上にあるから、最寄駅から徒歩で向かうのも困難だ。駅から会場への無料送迎バスを会社で用意しているものの、立地が良いとはお世辞にも言えない。  だが、都内にしては緑が多く、広い敷地の中に静謐さを持つ葬儀場は案外人気が高い。  門に続く曲がりくねった道を歩く。ちょっとした森のような木々の間に、凹凸の少ない石畳の道がある。石畳の左右は舗装されていない。手入れにコストがかかるとしても少しでも緑の多い環境にしたい、というのも社長の意向だそうだ。  革靴の底が石畳を打ち、足音がやけに響く。不意に、自分の足音以外の音がした気がして足を止めた。一瞬にして静寂に染まる。  木々の繁みの方向だ。気のせいだろうか。それとも猫かなにかだろうか。  会場内に自分しかいないことは戸締りをする前に確認した。立ち入りを禁じられている森以外の場所については、だ。  敷地内の森は社員であっても立ち入りが禁じられている。整備をしてはいるものの、古い木々もあえて残してあり、倒木の危険等もあるから、ということらしい。  立ち入ったらクビになる、とまことしやかに言われているし、そんな暗闇にわざわざ入っていこうとする物好きな大人はあまりいない。  だが、噂好きの大人はいる。  その森には幽霊が出るとか、盗品が隠してあるとか、なにかの犯人が住んでる小屋があるだとか。そんな曖昧で空想のような、誰も信じていない話はいくつもある。日々淡々と進む日常の中で、非現実や非日常を求めたくなる瞬間は誰にでもあるんだろう。  実際には、倉庫が一つあるだけだと聞いている。会社設立の際の記念品だとか、今は使わないが捨てにくいようなものがしまってあるらしい。水無月も倉庫にも森にも入ったことはなく、実態は知らない。  道もない場所に倉庫を作るなんて物好きにもほどがあるが、社長の考えが水無月にわかるわけもない。目を凝らしても建物は見えず、やっぱり気のせいだったんだろうと思い直して門に向かった。明日の朝も早い。手は指先まですっかり冷たい。  白い息を道に残しながら足早に進んだ。  ふと見上げれば月は夜空で満ちていて、星は瞬き息づいていて、でも俺は。

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