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第3話 序章3 邂逅
スマホアプリで呼んでおいたタクシーに乗って三十分程で家に着いた。免許を持っていないから、電車のない時間はタクシーを使わせてもらっている。免許を取るべきだとは思うが、その余裕もない。
水無月の家は築二十年ほどの、新しいとは言えないマンションの三階だ。エレベーターがないこともあって家賃が比較的安い。静まった半外階段を上り、鍵を開けて部屋に入り、電気を点けた。
一人暮らしだから当然誰もいない。ワンルームの部屋にはベッドが一台と冷蔵庫、電子レンジとトースター、小さなテーブルとパソコンがある。
コートとジャケットを脱いでハンガーに吊るしてから浴室へ。服を脱ぐ時はいつも、彼らといた余韻を消してしまうのは勿体ないと心から思う。
彼らならではの気配、死の匂いとも呼べるような、彼らといたことを証明してくれる唯一のものは、シャワーを浴びればあっという間に消えてしまう。
部屋に掛けた時計を見ればもう午前二時を回っている。明日の葬儀は十時からだから、余裕をもって六時には行っておきたい。形を失う前の彼に最後に挨拶をしたい。
シャワーを浴びて髪を乾かし、ジャージに着替えて夕飯を食べずにベッドに入る。セミダブルの少し大きいベッドは数少ない嗜好品だ。ベッドには先客がいる。水無月の身長の半分くらいの大きさのテディベアだ。これは嗜好品ではなく、必要なもの。
だらりと寝転がり、天井を見上げた。いつもやってるソシャゲのイベントが明日までだったことを思い出して、一応ログインしてみる。
イベントランキングの上位はいつも見る名前ばかりで、一位と二位は相変わらずシュガーとスノウが争っている。この二人はいつ寝てるんだろう、と大きな欠伸をした。
プレイする分のゲーム内体力は回復しているがもう眠い。水無月のランキングはかなり下がっていたが、明日の隙間でやったらランキングの端に入れるくらいだ。
リモコンで電灯を消すと薄闇に包まれた。テディベアを布団の中に引っ張り入れて抱き枕の代わりにする。もふもふの短い手を水無月自身の身体に回させる。
スマホのアラームだけは習慣で忘れずにつけると、抗えない睡眠にすぐに吸い込まれた。
眠っている時と死というのは、もしかしたら近いんだろうか。近ければいい。
起きてる時だって生きてないようなものだけど。
睡眠はあまりに一瞬だ。
目を瞑った瞬間にアラームが鳴って目を覚ました。アラームを間違えてかけたかとスマホを二度見しても、寝る前の自分は正しかった。
五時丁度。五時半にはタクシーの予約もしてある。休みの日でも葬儀が立て続けに入れば時間を問わず電話も来るし出勤もする。そんな生活にももう慣れた。
シャワーを浴び、グラスに注いだ牛乳を飲む。少し黒くなり始めたバナナと食パンのどちらにするか一瞬悩み、皮を剥くのが面倒な気がして食パンを袋から出し、そのまま齧った。
スーツに着替え、家の前に止まったタクシーに乗り込む。マンションからタクシーまでの僅かな距離ですら冷気が肌を刺した。
タクシーで転寝していると、すぐに運転手に声を掛けられた。葬儀場が家の隣にあるのではないかと錯覚する。裏手にある門の、南京錠と電子キーを開ける。
まだ暗く木々に覆われた、歩き慣れた道を進む。数分歩いて、ようやく会場に辿り着いた。ドアに手を掛ける。
「あれ」
聞く人もいないのに思わず声が零れた。斎場の入り口のドアに鍵がかかっていない。鍵をかけ忘れただろうか。鞄のキーケースを探れば、確かに鍵は持っている。いつもの習慣で掛けているはずだ。誰かが開けた? 金目のものもないのに?
ざわりとした。
ニュースを思い出す。遺体が盗まれれば当然責任を問われる。そしてそれ以上に、大切な遺体を盗むという行為は許しがたい。
建物の中に飛び込み、今回の葬儀を行うホールへ駆けた。ドアを開ければすぐに祭壇が視界に入った。祭壇の中央には確かに柩が安置されている。周りのものが荒らされた形跡はない。
中身だけ盗まれることもないだろうとやや安心して、念のために、と柩の窓に手を掛けた。
「……っ、な……ッ」
言葉を失った。光が見えた、気がした。
目が眩むほどの光。何度も瞬きをして、手の甲に爪を立てる。寝惚けてるんだろうか。数時間前に見たものとは全く違うものが見える。顔が違う、髪の色が違う、全てが違う。
「な、んだ、これ……」
疲れて幻覚でも見ているのかと思った。柩に入っているのは遺影に写る人物ではない。悲しみのあまり遺族が中に入った?
いや、違う。強い死の匂いがする。
我に返って重い柩の蓋を強引にずらした。柩の上に乗せてあった守り刀が音を立てて床に落ちる。
見間違いじゃない。
白百合と白薔薇、トルコキキョウに囲まれて横たわっているのは、まるで標本か人形のようななにかだ。故人の松島隆ではない。
白磁よりも真白な肌に、鼻梁がすぅっと真っ直ぐ高く通っている。眠っているかのようにたおやかに閉じられた瞼を彩る睫毛は長く、つんと聳えていて、銀の輝きと硝子の透明さを兼ね備えている。やや中性的にも見えた。
睫毛と同じく一本一本が硝子細工のように透明感のある銀髪が柩の中でゆったりと流れて光を集めている。死んでしまった身体の毛髪はどうしても艶やかさを失ってしまうというのに、この銀髪は生者の髪よりもしっとりと潤っているように見える。
圧倒的な幾重もの死に覆われているのに、輝いていた。眩 すぎる死に、眩暈がする。
故人の松島隆はごく一般的な見た目の三十代男性だ。あたたかみのある、ごく普通の死だった。比べるまでもなく、別の死だ。
こんな遺体は初めて見た。綺麗という言葉では全く足りない。だけどそれ以外の言葉が思いつかない。重苦しい死に惹かれて、目を奪われて、耳がぼうっと遠くなる。
死体に光を見ることはあるが、それにしてもこれは眩すぎる。おそろしささえあって、背筋がぴんと伸びた。
白の経帷子ではなく黒の服を着ていて、白い肌と花々との対比で映える。
思わず手袋も付けずに手を伸ばし、指先で頬に触れる。滑らかな肌はひんやりと冷たく、氷の温度だ。当然に脈打ってはおらず、動きもしない。蝋人形にも似た肌の質感。
見ていたい、ずっと話していたいという遺体は今までにも出会ったが、こんなにも触れて近付きたいと思ったのは初めてだ。
遺体に闇雲に触れてはいけないのはわかっている。だって俺の親しい相手でも家族でもない。俺が触るのは許されない。だから、せいぜい指でそっと触れるだけにしてきたし、それだけの理性はあった。
ぷつりと、何かが切れる音がした。血色の悪い青みを帯びた、だが花弁の瑞々しさがある唇に視線が釘付けになり、そのまま魅かれて目を離せなくなる。
糸で引かれ、惹かれ、抗えず操られるように、自分の唇を重ねた。
「ん……」
鼻にかかった声が漏れる。生きている温度と死んでいる温度が混ざり合う。自分の体温が酷く高く感じられ、生きているのだとわかる。自分の体温が冷たい遺体を汚し、犯していくような錯覚。
「っ、ふ……あ……」
初めての口づけは恍惚と罪悪感が綯交ぜだった。一度踏み込んでしまえば罪悪感にますます煽られた。キスをしたいなんて、何に対しても感じたことなんかなかったのに。漫画や小説の中でキスをする意味がわからなくて、読み流してたのに。
衝動の理由もわからないまま、技巧も何もなく、何度も何度も触れるだけの口づけを繰り返した。
あと少しだけ、と欲望に駆られ、舌をそろそろと伸ばして固く閉じる唇に触れようとし、ようやく気付いた。
これは、死の匂いじゃない。
「なっ、死んで、ない……?」
圧倒的な死の気配だと思った。違った。懐かしい香りに似てるけど、僅かに違う。ずっしりと濃厚な薔薇の匂いが香った気がした。
「死体の、ふり……? んな馬鹿な」
そんなわけない。確かに身体は冷たい。胸のあたりで組んである黒い手袋に包まれた手に触れてみても固く、解けそうには思えない。どう見ても死後硬直だ。
勘違いかもしれない。水無月はもう一度顔を近付け、瑞々しくも思える唇に指先で触れようとした。
「死んでないよ」
唇が動いて、軽い口調の声がした。目の前で唇が動いているのに信じられず、勢いよく上体を起こして周りを見渡す。入口の扉が開閉した様子はなく、自分しかいない。いや、自分と、死体だと思い込んでいたものしかいない。
柩の中でそれが動いて、水無月は思わず飛び退った。
ゆっくりと身体を起こしたそれは、ホラー映画のゾンビには見えない。
腰くらいまでの長さの銀髪が輝きを増した。密やかに綻ぶ瞼から現れた瞳は赤みがかった金色。それは確かに、水無月を見た。
柩の中で上体を起こし、片膝を立てた死体は首を横に傾げた。散りゆく花びらみたいに微笑む。
「はじめまして、俺の王子様?」
柩の中で、死が目覚めた。
心臓がどくどく音を立てて脈打って、俺の世界の始まりを告げた。
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