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第4話 別れ
死は、水無月を静かに見つめた。動いているのに止まっているような、奇妙な時間。
「どうしたの?」
微塵も動けずにいる水無月を見て、それは不思議そうに瞬きをした。何事もなかったかのように棺から出て床にとんっと降りる。
薄暗いのに、それがいる場所だけはきらきらと煌めいて見えた。錯覚に決まってる。幻を見るほどに圧倒的な存在感なのだ。それは人間離れした容姿で、現実味がまるでない。
美しさの概念は人によって、時代によって変わる。
だとしても、これを美しくないという人はいないんじゃないかと思った。
だって、死が動き、声を発していて、死と話すことが出来る。気のせいじゃない。
きらきらと眩いばかりの死体が──死体ではないなにかが、水無月へ一歩、近付いてきた。思わず後退る。
「へ? は? ……え? なに、お前」
あまりに驚くと間の抜けたことしか言えなくなるらしい。いつもは誰に対しても敬語で接するようにしているのに、地が出てしまった。
世にも精巧な死体だった何かは、んー、と声を出しながら両手を上に上げて伸びをした。ぱき、ぽき、と関節が鳴るちいさな音がする。
「何って言われても……」
水無月よりもやや低く、甘さのある声が答えに詰まっている。
血色の悪かった唇にはうっすら紅が差していて、男は首を横に傾げた。流麗な銀髪がさらさらと幽かな音を立てる。背中の半ばまであるたっぷりとした銀髪は月の光をまぶした川面のようだ。
つい先ほどまで緩やかな曲線を描いて固く瞑られていた瞼はしっかり開いている。やや釣り目がちで赤みがかった金の瞳は水無月だけに向けられている。
年齢は二十代後半か三十代前半といったところだろうか。高槻と同じくらいかもしれない。黒く長いコートで全身を包んでいる。装いは弔問客のようでもあるが、黒に銀髪が華やかだ。
「なんで死んでないんだよ」
我ながら馬鹿な質問だ。でも、確かに死の匂いがするのに目の前で動いていて、話している。幻覚か夢か幽霊かゾンビでもなければ、生きている。だから夢かもしれない。
「なんかごめん。まさか寝込みを襲われるとは思わなくて」
水無月の間の抜けた質問に、男はあはは、と軽く笑った。人形っぽさが薄れる。だが、日本人離れした見た目で日本語を話していることに違和感があった。長い睫毛は瞬きをするだけで光を集めて輝く。
人聞きの悪い事を言うなと言いたかったが、一方的に触ったのは事実で、言葉に詰まった。
「気持ちよさそうなベッドがあったから仮眠しようと思って入ったんだけど……まさかこんなに朝早くスタッフが来るなんて思わなくてさ。普通もう少し遅くない? 君は勤勉なんだね」
「ベッドじゃない」
混乱した頭は、とりあえずわかりやすい情報だけを拾った。突っ込むべきところはそこじゃない。頭が痛い。巷を騒がすニュースと目の前の現象と男がようやく結びつき、水無月は棺から離れて身構えた。
「ここに入ってた遺体、どこにやった」
入ってたはずの遺体がなく、代わりに謎の人物が入っていた。だとすれば帰結する先は一つだ。
「え? 言ったでしょ、丁度良いベッドがあったから入ったって。空だったよ。だから変わった生前葬でもするのかなーって思ってたんだけど」
「……空だった?」
疑問が口をついて出た。空だったわけがないのだ。確かに松島隆の遺体が棺に入っていたはずなのだ。
棺から出た男は壇上から降りてきて、水無月と同じ高さの場所に立った。同じ生物とは思えないくらい足が長い。
並んで立ってみると一七五センチの水無月よりも頭半分かもう少し背が高かった。一九〇センチくらいだろうか。
「そういうわけだから、俺と会ったことは忘れて」
男は水無月に背を向け、大きな手のひらをひらひらさせながら出口へ向かう。
「待てって! お前が盗んで隠したんじゃなきゃなんなんだよ? 鍵開けたの、お前だろ」
スタッフのスケジュール感を知っているということは、同業者でなければ葬儀場に忍び込む常習犯だ。
不審者に不思議と恐怖は感じず、呼びかけた声が葬儀場に響いた。遺体を早く見つけないといけない。
死体だと思い込んでいたものにうっかり見惚れてしまっていたが、問題は見知らぬ男が入り込んだことだけじゃない。待て、という訴えを聞いてくれたわけでもないのだろうが、男はぴたりと足を止め、水無月を振り返った。
「そういえば君さ、なんで俺が死んでないってわかったの? さっきは心臓も止めて隠れてたから普通気付かないはずなんだけど」
心臓って止められるものなのか?
「いや、そんなことよりここにあった遺体のこと……」
「なんで?」
質問に質問で返すと、金の瞳でじっと見つめられた。睨まれているわけではないのに、気圧されて動けない。口の中に唾液が溜まっていく。かつかつと足音を立てながら近付いてくる男が小首を傾げる。ごくり、と唾液を飲み込んだ。
そんなほんの少しの動作なのに、身体が竦む。金色に吸い込まれそうになる。警戒しているのに、目尻のうっすらとした赤さに見惚れてしまう。
「それは……匂いが、しなかったから」
「匂い?」
「死の匂い」
答えに満足したのか、男はへらりと笑った。途端に威圧感が霧散する。こんな男に怯えて、信じてもらえないようなことを言ってしまったのが馬鹿みたいに思える。
「へぇ、珍しいね」
男はやや驚いた様子で、だが疑うことはなく頷いた。普通に考えれば妄言としか思えないはずなのに、すんなりと受け入れられたのが意外だった。
その時、ドアの外で何かの音がした。男はぴたりと足を止めた。
「……ここのスタッフはみんな真面目なの?」
男は声を潜めて言った。
「真面目だけど……まだ出勤時間じゃない」
六時半前。高槻さんは七時くらいには来るだろうが、他のスタッフが来るにはまだ早すぎる時間だ。
「鍵も、さっきの様子だと君が閉め忘れたわけじゃない。君じゃない誰かが開けた。つまり、俺と君以外に誰かがいるってことか」
男は一瞬逡巡し、それから一人で勝手に深く頷いた。
「それなら俺は、さっさと行かなきゃ」
男はドアではなく、窓の方へと歩き始めた。出口とは反対の方向だ。なにをするつもりだろう。
「だから、遺体返せよっ」
「返せって言っても俺は盗んでないし隠してないし……あと、俺は鍵は開けてないよ」
「だったらどうやって入って……」
嘘を吐いているに決まっている。窓の鍵はまだ確認していないが、開いていたとしても人間が通り抜けられる大きさではない。
「俺が来た時にはもう鍵が開いてたから」
後ろ姿が肩を竦めた。こいつの前に、先客がいた?
「君とはもっと話してみたいんだけど、残念ながら長居は出来ないみたいだね」
「どういう意味だよ」
「情けない話なんだけど、ここには隠れてたんだ。追われてるみたいで」
男は自嘲するように力なく笑った。
「何に?」
男は水無月の質問には答えず、窓の鍵を解いて開けた。転落防止の構造上、頭一つ分しか開かない。
窓から入り込んできた風に銀髪が流れた。空がうっすらとした紫に染まり始めているのが見えた。二月中旬、まだまだ冬真っ盛りだが大分日の出が早くなってきた。
「だから、ばいばい……またね」
「逃げるな……あれ?」
窓から男に視線を戻したつもりが、姿がない。声の余韻だけを残して、消えてしまった。吐き出した白い息が消えるよりも素早く、いなくなってしまった。
「何だったんだ……」
夢幻のようだった。今までに見たことがない、この世のものとは思えない容姿だった。願望を反映した幻覚でも見たのかもしれない。艶やかな長い銀髪と整った鼻筋、赤金の怜悧な瞳、すらりとした手足。
「あ、やば」
変わり映えのない日常の中で願望を映した夢だったのだ。
ドアの外で音がしたことを思い出し、走った。ドアを開けてみても、長く真っ直ぐな廊下に人影はない。
音は気のせいだったのかもしれない。それか、もうとっくに逃げ出した後か。だとすれば、その誰かが遺体を盗んだ犯人かもしれない。さっき追いかけておくべきだった。
男は追われていると言っていた。それが本当かどうかわからないが、松島隆の代わりに棺の中にいた男は綺麗な死体に見えた。遺体盗難犯がさっきの男を狙っていたとしても驚きはない。
もしかしたらいたかもしれない誰かの追跡は潔く諦め、もう一度棺の中を覗き込んだ。
中には白い花々が詰まっていて、遺体があった場所、あの男がいた場所だけ穴が開いている。手で触れてみても体温の名残すらない。ドライアイスの冷ややかさと死の残り香がある。
棺の足元に置いておいた黒の通勤鞄を持ち上げる。鞄を閉め忘れていたらしい。隙間から手を突っ込んでスマホを取り出し、上司の高槻の番号に掛けた。
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