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第5話 再会

「疲れ、た……」  警察による聞き取りやらあれやこれやが終わってようやく解放されたのはすっかり日が暮れて暗くなってからだった。勤務時間よりもはるかに長く拘束され、擦り切れたボロ雑巾になって帰宅した。  家に帰るなりすぐに外面を剥がした。靴を放るように玄関に脱ぎっぱなしにし、誰もいない冷えたワンルームの部屋の明かりとエアコンを点けた。コートを脱いで壁に掛ける。  やってられない。遺体が一つなくなった。  身近で起こっていた事件ではあるが、まさか自分自身に降り掛かってくるとは思ってなかった。いざ起こってみれば、事実自体はあまりにあっさりしていて実感が薄い。  電話をしたら高槻さんは息を切らしてすぐに駆けつけてくれた。警察にも連絡して、こんな時間まで事情聴取をされた。鍵は掛けたのかとか、連絡をするまでにどこかに触ったかとか、不審人物を見なかったかとか。  奇妙な男のことは話さなかった。棺の中に入っていて霧のように姿を消した男は明らかに怪しい。けど、伝えたところで誰も信じないだろうし、俺の幻覚だったのかもしれないし、変な奴だと思われるのも面倒だ。何故か心の中で言い訳する。  喪主と遺族には会社のもっと上の誰かが連絡をとったようだ。遺体のなくなった葬儀は急遽延期になった。中止になってしまうかもしれない。  現場の第一発見者であり通報者でもある俺には疑いの目が向けられているようだが、逃げて所在を見失うことはないだろうとのことで解放された。金がなく海外に高飛びすることもないと思われてるだけかもしれない。  実感は薄いが、その後の手続きやらなにやらに追われ、確かに事が起こってしまったのだということはわかる。物語の中にいる自分そっくりの人物が困難に襲われているのを俯瞰するような感覚だった。  自分のことで、他人事。触れ合って一方的に温度を交わしたばかりの遺体が失われた事実に苛立って、次に自責があって落ち着かず、今になってふつふつと腹が立って、その上、さみしい。  今日は遺体と関わらなかったから死の匂いが薄い。こんなときこそ落ち着く香りに包まれていたいのに、それがない。  死に似た匂いは覚えている。死の匂いなら落ち着くはずなのに、あの匂いを思い出すとそわそわして、胸の奥が締め付けられるような感覚がある。理由はわからない。  いつもの習慣でなんとなく鞄からスマホを取り出し、ベッドにぼふんとダイブした。うつ伏せになって枕に顎を乗せ、いつものソシャゲのアイコンをタップする。ログインしようとして、ロード時間がやたらと長く感じられた。  そんな些細なことに苛立ち、イベント最終日のラストスパートをする気にもなれない。スマホをベッドの上に放り投げるとぽすんと小さな音がした。何のやる気も出ない。  こんな日はシャワーを浴びてさっさと寝てしまおうと、線香も死の香りもしないジャケットのボタンを外し、ベルトを緩めようと手を掛けたときだった。  ぶわりと、死の匂いがした。  違う。  死の匂いに似ていて薔薇の混ざったような香り。夜の匂いみたいな。 「なんか生活感のない部屋だね」 「──っ」  香りの元を探すまでもなかった。声が聞こえて、ベッドから跳ね起きた。スプリングが軋んだ。 「な……な、に」  水無月以外誰もいないはずの部屋にもう一人、いた。  それがここにいるだけで、まるでこの部屋が異世界になったかのようだ。  ワンルームの狭い部屋にはあまりに不釣り合いな、月光を浴びた硝子のように煌めく長い銀髪と赤みがかった金色の釣り目、均整の取れた肢体。忘れるわけがない。夢幻がベッドの足元に立っていた。 「ど、こから……」  あまりに突然で、心臓が止まったかと思った。ドアは鍵を閉めたし、開いた音もしなかった。 「おもしろいなー。怖くないの? 逃げないの? 不審者なのに」  なんでだろう。  答えを返してくる生者は苦手で、誰かと話したいと思ったことなんかない。しかも不審者だ。 「……不審者の自覚はあるのかよ」  纏う香りと見た目に惑わされているせいか、疲れすぎて自暴自棄になってなにも考えられてないせいか、この男とは話してみたいと思ってしまった。部屋に満ちる匂いだけで頭の奥がじんと痺れて、酔ったようになってしまう。  だが、気を許すべきではないのは明白だ。詐欺師や泥棒かもしれない。 「だって、不法侵入だもん、これ」  男は堂々と言いながら手袋を外した。コートのボタンを解いて脱ぎ、自分で勝手にハンガーを見つけて壁に掛ける。  長い指がコートのボタンを外していく様を、視線で追ってしまっていた。コートの中には黒のタートルネックのニットを着ていた。呼吸に合わせて緩やかに上下する胸がニット越しにわかる。棺の中にいる時とは違って、確かな息遣いがある。  ちょっとした実業家のような服装だが、華やかすぎる外見がその印象を打ち消す。  鬱陶しいのか、どこかから取り出した黒のリボンを使って長い髪を左肩で緩く一つにまとめた。煌めく彗星の尾のような銀髪が胸の方へ流れる。 「どうやって入ったんだよ。ピッキングの達人だとしても、どう開けたって音がするはずなんだけど」 「君と一緒に入っただけだよ」  男は水無月の方へ手を差し伸べてくる。 「皐のもちょうだい」  自然な仕草につい流されて、脱いだスーツのジャケットを渡しかけ、警戒心が勝ってハンガーを奪った。男のものよりも一回り小さいジャケットを壁に掛ける。 「……尾行、してたのか」  俺の背後にべったりくっついてて気づかないようにしたとか? 仮に尾行されていたとして、それに気づくようなスキルは持ってない。  けど、それにしたって一切足音はしなかったし、ドアを開けた瞬間にするりと入り込まれるわけもない。玄関は一人立てばすれ違うのも難しいくらいの狭さだ。  距離を取った。ストーカーされる覚えもないが、不審すぎる。 「ずっと一緒にいたよ? 陽にあんまりあたりたくなかったから、鞄の中に入らせてもらってただけ。鞄を開けっ放しにするのは不用心だよ」  指差した先を見れば、スマホを出した後に開けっ放しにしていた黒い通勤用の鞄があるだけだ。 「意味わからないんだけど……は?」  言ってから振り返れば、夢幻のような男の姿は消えていた。手のひらサイズの真っ黒な蝙蝠が一羽、きぃきぃと小さく鳴きながら、水無月の視線の高さで羽ばたいている。  我ながら馬鹿みたいな声を出していると、不気味なイメージとは裏腹にくりっとした目が可愛い蝙蝠が近付いてきて、水無月の肩の上に乗った。 「うわっ」  咄嗟に手で払い落とそうとして、出来なかった。次の瞬間には蝙蝠の姿は消えていて、代わりに銀髪の男に抱き着かれていた。 「そんなつれないことしないで? 羽根が折れたら腕が折れちゃう」  甘ったるい声で囁かれ、匂いと相俟って、相手のペースに絡め取られてしまう。 「重……ッ」  自分よりも背の高い相手に勢いのままに思いきりぶつかるように抱きつかれ、支えられるわけもなくよろめいた。倒れ込んだ先はベッドだった。 「や、めろよ……」  抱きすくめられた腕の中でどうにか藻掻いて振り解こうとしても、のらりくらりとしなやかに動く腕から逃げられなかった。腕の中にすっぽりとおさめられてしまう。  誰かに触られるのは嫌いだ。体温も、脈拍も、息も、生を感じさせる全てが気持ち悪い。だから誰とも極力関わらないように生きてきた。そのはずなのに。 「やめない。だって、俺のこと好きでしょ?」  目の前に、悪戯っぽく微笑む綺麗すぎる顔があった。赤みがかった金の目に真っ直ぐに見据えられ、囚われて動けなくなる。不思議と吐き気に襲われず、むしろ何故か落ち着く。  肌は傷一つない陶器のようで、髪は永遠に溶けない氷のよう。薄い桃色を刷いた唇も艶々と作り物めいて、同じ生き物とは思えない。そもそも生きているものとも思えない。こんな生き物が本当に世の中にいるんだろうか。 「俺にキス、したよね」 「っ、起きて……」  死体だったはずの唇との触れ合いは、初めてのキスは、肌に馴染んで気持ちが良かった。自分の熱や命が奪われていくようで。自分がなにかを誰かに与えられるようで。 「起きてたっていうか、王子様のキスで目が覚めたんだよ、白雪姫みたいに」  毒林檎を食べて眠っていた、あるいは死んでいた白雪姫。美しい姫は七人の小人の呼びかけには応えないが、王子の口付けで目を覚ます。それは強欲な計算なのか、それとも動物的な本能なのか。  俺はお姫様だからね、と頭のねじの抜けたことを言いながら、そいつの唇が近付いてきて、鼻の頭に触れた。びくり、と身体が強張る。小さな震えが、すぐ傍にいるこいつに伝わらなかったわけがない。  この歳になって鼻へのキスごときで恥ずかしいわけがないと強がりたいのにできなかった。こんな風に誰か他人に触れられたのは初めてで、どうしようもなく縮こまって固まった。

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