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第6話 添い寝

「……嫌なわけじゃない、よね?」  さっきまでの自信はどこへやら、唇が離れ、少し細くなった声で耳元で囁かれた。髪にさらりと耳朶を撫ぜられて、さらに身体を小さくする。 「……どういうつもりだよ」  あからさまな不審者で、追い出すべきなのにできなかった。逃げたいとも思えない。低い体温の唇が触れた場所が、何故か熱い。詐欺師に騙されるとき、こういう気分なんだろうか。騙されて死んでもいい、みたいな。 「嫌じゃないなら、良かった」  あからさまにほっとしたというように、男は小さく息を吐き出して呟いた。緊張してるのは案外自分だけじゃないのかもしれない。男の安堵が伝播するが気を許すべきじゃないのは明らかで、安堵をどこかに放り投げようとした。 「驚かせたよね、ごめん」  手馴れていて強引なのかと思えば、謝罪する言葉は控えめでどこか怯えさえ帯びているように聞こえた。全部が全部、相手を騙して懐に潜り込む手口としか思えない。 「悪かったな、慣れてなくて」  照れ隠しに咄嗟に悪態を吐いた。自分にもこんなプライドがあったのかと、少し驚く。怪しくも心地好い腕の中に囚われて逃げ出せず、かといって無防備に相手の胸に顔を埋めることも出来ず動けなかった。 「悪いとかじゃなくて、そのテディベア、部屋と雰囲気が違うし、恋人から貰ったのかと思ったんだ。けど今は部屋に他の人の気配がないから別れたのかなって。だったら一人寝は寂しいかなって思ったんだけど、ごめん」  声に嫌味はなく、飄々とした素振りも消えて素直にもう一度謝られ、拍子抜けした。 「自分で買った。似合わないだろうけど」  仕事を始めて財布に少し余裕が出来、最初に買ったのはテディベアだった。 「全然。大切にしてるのが伝わってくるよ」  いい歳の男の部屋にあるぬいぐるみを、馬鹿にされなかった。まるで詐欺師の手口みたいな人懐っこさに、うっかり絆されてしまいそうになる。  あたたかみのある茶色のテディベアだ。毎日もふもふとした腕に抱かれて眠っているせいで、長い毛並みはぐしゃぐしゃになってしまった。綿も少し偏りが出て歪になり始めてしまっている。  いつか母さんに買ってもらえなかった大きなテディベアにそっくりなぬいぐるみ。その時は買ってほしいと駄々をこねることも出来なかったが、大人になってもなんとなく忘れられず、初任給で買った。  子供の頃は俺よりもずっと大きく見えたけど、今の俺の半分くらいの大きさしかない。 「一晩寝場所を貸してもらえないかって思ったんだけど、先客がいるみたいだから俺は帰るね」  男はテディベアの頭をぽんぽんとやさしく撫でた。生きている人間か動物にするような、丁寧な仕草だ。 「帰る、って」  寂しくてあたたかい言葉だ。ここ以外に居場所があるんだとわかる。同時に、ここから立ち去ってしまうのだと知らされる。水無月にとっては冷たくだけ響いた。  圧し掛かっていた身体がすっと引いて、離れていくのがわかる。なんでそんなことをしたのか自分でもわからないまま、咄嗟に男の服の裾を掴んでいた。一晩って、なんだよ。 「……引き留めてくれるの?」  警戒すべきだ。追い出すべきだ。警察に通報すべきだ。でも。仮に詐欺だとしても盗られて惜しいものはないし、奇妙な殺人犯だったとして、この、初めて知った心地好い匂いに包まれて死ぬのなら悪くないのかもしれないとすら思う。生きたい動機もないのだ。 「帰る場所、あるのかよ」  帰ると言った時の声が少しだけ遠く、悲しく響いた気がしたのはなんでだろう。 「どうかな」  誤魔化された。俺にもこいつにも、言いたくないことがある。それでも良いし、それだから良い気もした。所詮、通りすがっただけの赤の他人で、俺からすればこいつは不審者だ。 「でも、君と話したいって言ったのは嘘じゃないよ。嘘はひとつも吐いてない」 「……ふーん」  気のない声を出した。嘘だ。出会ったばかりのこの男のことが気になった。 「気付いてる?」 「何に」  ベッドに座った男に、前髪を梳かれた。頼りない盾の前髪を横に流されて、心もとなくなる。 「皐がさっき、泣きそうな顔したこと」  さっきがいつのことなのかわからなくて、答えられない。朝なのか、今なのか、男が帰ろうとしたときなのか。自分のことがわからない。  何ひとつ言葉の形に出来ずにいると、男はふわり、笑って、水無月の隣に横になった。 「ありがと、寝るところ探してたから、助かるよ」  くしゃりと髪を掻き混ぜるように頭を撫でられた。気を遣わせてしまった。妙に綺麗な顔がすぐ近くにある。 「……本当に?」  さっきは帰ると言っていた。それに、家に入り込むのも頭を撫でるのも抱き締めるのも、キスにだって、慣れている。この顔と声で、俺相手じゃなくたっていくらでもどうにでもなるだろう。 「うーん、ごめん、嘘吐いた」  ちくり、針が刺さった気がした。 「本当は寝るところはあるんだ。君と話してみたいって思ったから、ついてきちゃった」  明らかな不審人物なんか出て行ってもらったほうがいいに決まってる。けど、俺なんかと話してみたいって、言ってくれた。身近にある死の匂いを失いたくもない。  無言で寝返りを打って壁際に寄り、場所をあける。男はもそもそと毛布の中に入り込んできた。顔がますます近付いてきて、薄闇の中でも目立つ金の目で見つめられて、また、動けなくなる。鼻と鼻が触れる。唇と唇がくっつく、と思って咄嗟に目を瞑った。 「嫌なことはしないよ」  思っていた感触は唇には降ってこず、代わりにこつんと額同士が軽くぶつかった。目と目が間近で合って、逸らしたいのに逸らせない。髪を指先でそっと梳かれる。  ひんやりとした指先で頭皮を強めに押されると、じんわりと血液が通ってあたたかくなっていく。あたたかくなった傍から冷たい身体に体温が奪われて、不思議な循環にふわふわと、所在なくどこかに浮かんでいるような心地になる。  誰かに無防備な寝姿を見せるなんて、あり得ないと思ってた。それなのに、不意に掴んでしまった眠気に抗えず、重い瞼が勝手に落ちてくる。 「今日はもうこのまま寝よ?」  男が黒いリボンをするりと外すと、銀髪がさらさらと流れて水無月を擽った。  俺が家主なのになんでお前が主導権を握るんだよ、と思っても、心地いい香りに包まれて何も言い返せない。  ネクタイを緩められて、シャツの残りのボタンを外される。誰かに服を脱がされるなんて考えたこともなかった。子供の頃から、全部一人でしてきた。誰も俺に触ろうとなんかしなかったから。 「自分、で……」  自分でやると言いたいのに、眠気で舌まで鈍って重くなる。手を拒めば、服を渡された。寝間着にしているスウェットだ。  怠い身体を無理矢理動かして服を脱いで着るのを、何故か男が手伝ってくれた。そのままそっと手を握られる。手を包まれ握り合うと安心するのは何故なんだろう。 「いいから。おやすみ、皐」  今日は未知のことばかりで、すっかり疲れていて、あっという間に睡魔に負けてしまう。おやすみ、と返そうとして、気付いた。 「その……名前」  何故か男の方を見られず、寝返りを打って壁と向かい合う。水無月の問いかけに、少し間があってから男はくすりと笑った。 「最初に名前を聞かれるなんて思いもしなかった。普通さ、もっと気になることあるでしょ」  そうだっけ。そうか。人間とは思えないこの男の正体とか、なんでここに来たのかとか、なんで棺に入っていたのかとか、本当に遺体を盗んでいないのかとか。聞かなきゃいけないことはたくさんあるはずだ。 「アイリ」  男が口にした名前は、何故か朝の教会の鐘の音みたいに凜と澄んで響いた。 「綺麗な名前、だな。おやすみ、アイリ」  寝る前の挨拶をしたのは何年ぶりだろう。名前を知りたかった。名前を呼んで、おやすみと言いたかった。名前を音にするだけで、鼓動が澄んだ。 「ん。おやすみ、皐」  ちゅ、と耳の裏にキスをされた。  表札も出してないのに何で名前を知ってるのかとか、疑問は山ほどある。でもそんなことよりも前に、おやすみという相手がいることに柄にもなくほっとした。冷たい腕で身体をふわりとやわらかく抱かれる。  このアイリとかいう男が美しすぎる殺人鬼とか遺体盗難犯だったとして、俺のことを殺して奪ってくれるだろうか。そんなわけない。俺には殺すだけの価値もない。  匂いがする。懐かしく甘い死臭に包まれて、このまま死んでも構わないと思いながら、夢のない眠りに落ちた。

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