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第7話 穏やかな時間

 低音が響く激しい音楽で頭をがつんと殴られ、布団を跳ね飛ばして目を覚ました。慌ててスマホを探し、アラームを止める。  仕事に遅刻しないように、アラームは十分ごとに四回掛けている。もともとスマホのアラーム用に入っていたやさしい音楽から始めて、ぴぴぴと王道の電子音、緊急地震速報顔負けの電子音、そして滅多に聞かないメタル。  これが聞こえたということは最後通牒だ。葬儀がない遅番の日のぎりぎりの起床時間、八時半。ここから十五分で支度して走って駅に向かえば始業時刻の十時にどうにか間に合う。  余程疲れていたのか、三回のアラームには全く気付かなかったらしい。案の定スマホの時計は八時三十一分を表示している。慌ててベッドから下りようとして、違和感を覚えた。  なんで俺は、ベッドのこんな端に寝てたんだっけ。しかもいつも一緒に布団の中に入っているはずのテディベアは枕の横で大人しく座っている。テディベアなしで寝たらしい。寝れたらしい。なんで? 「あれ……?」  甘く食欲を擽る匂いを吸い込んだ。 「あ、さすがに起きた?」  狭いキッチンとの境に置いてあるアコーディオンカーテンの方を見ると、声と一緒にひょいっと顔が現れて、心臓が止まった。 「……誰」  人間離れした眩しい容姿と、安物のカーテンの隙間から入って来る朝日にきらきらと輝く銀髪。 「つれないなぁ、一緒に寝た仲なのに」  夢じゃなかったらしい。  どこから勝手に引っ張り出したのか、水無月の部屋着の白いシャツにジャージを着て灰色のパーカーを羽織っている。水無月よりも背が高いせいで、腹や腰の、やたらと白い肌がちらりと覗いている。 「勝手に入ってきただけだろ」  壁に掛けられたスーツ一式を見て時間を思い出した。やばい。スウェットの上を床に脱ぎ捨ててワイシャツに手を伸ばす。エアコンを付けてても少し寒い。 「朝ごはんできてるよ。そんなに急いでどこ行くの?」  いかにも怪しい男がなにやら皿に盛り付けているが、食べてる場合じゃない。 「今日仕事ないでしょ」 「え?」  ワイシャツのボタンを留める手が止まった。 「連絡来てるよ」  アイリが指差したスマホを手に取ると、通知がポップアップしていた。メールを開かなくても途中まで読める。「お疲れ様。今日はゆっくり休んで……」。そこまでが見えて、改めてメールを開いた。  午前四時過ぎのタイムスタンプだ。昨日の事情聴取等で疲れているだろうから今日は休んでくれて構わない、という内容の、高槻からのメールだった。  社長までが気にかけて心配してくれているらしい。社交辞令だろう。社内から犯罪者が出たらどうしようと頭を悩ませているのかもしれない。  会社側としては遺体盗難犯の疑いを掛けられている奴に来られても迷惑だから有休を取れ、ということなんだろう。事務的な内容の後に、気にしないで構わないし、気晴らしに飲みにでも行こう、と高槻さんらしい気遣いの一文が加えられている。  そういえば昨日はそんなこともあったのだと、悪夢のような現実に引き戻されて小さく呻いた。  仕事がないことに気が抜けて、スウェットを着直した。鼻歌を歌いながらキッチンで何かをしているアイリの背中を睨みつけた。長い髪を上の方で一つにまとめている。 「メール、見たのかよ」 「ごめん、見ようとしたわけじゃないんだけど、アラームを消すときに通知だけ見えちゃって」  確かに、通知でも今日が休みらしいところまでは読めた。アラームはすぐにアイリが消したから気付かなかったらしい。 「最後のうるさいのも消そうと思ったんだけど、手が塞がってたんだよね。まだ寝ててよかったんだけど」  言いながら、アイリは皿を小さなテーブルに置いた。ベッドの隣に置いてある、小さな長方形のテーブルだ。  二人で座れば窮屈すぎるそこに、二枚の皿が置かれた。たまにしか使わないパソコンは端の方に除けられている。 「なにこれ」 「甘いの嫌いじゃない?」  パンは湯気を立てて甘い匂いを漂わせていた。フレンチトーストだ。  一人暮らしで料理もしない水無月の部屋に揃いの皿があるわけもない。大きさの違う二枚の白い皿に、食べやすい一口サイズに切られたフレンチトーストが乗せられていた。薄くスライスして焦がした砂糖を纏わせたバナナがトッピングだ。  フレンチトーストはこんがりきつね色に焼けている。オリーブオイルの掛かったキャベツと人参のサラダ、プチトマトまで添えてある。不揃いの皿に洒落たカフェのような盛り付けが不釣り合いだ。  毒でも盛られてるのかと一瞬疑うが、俺には殺す価値もないし殺して奪う価値のあるものも持ってない。  甘いものを自分で買う機会も食べる機会もあまりなかったしフレンチトーストは食べたことがないが、おそらく嫌いではないと思い頷いた。 「それならよかった。冷めないうちに食べよ」  にこりと笑う顔は怜悧な顔立ちに似合わず柔和で、惹かれるようにアイリの向かい側に座った。  マグカップになみなみと入ったミルクティーを胃の中に入れると身体が少しずつあったまっていく。  毒を喰らわば、とフォークで刺してフレンチトーストを口に運ぶ。ふわふわで香ばしくてしっかり甘く、砂糖の入っていないミルクティーとよく合う。 「……おいしい」  誉めようとしたわけではなく、自然と零れた。普段料理をしないし食へのこだわりは薄いが、おいしいものは好きに決まってる。  フォークをバナナに刺せば、パリっと小さな音がした。齧ってみればキャラメルみたいなほろ苦さとたっぷりとした甘さが広がった。黒くなりかけていたバナナだとは思えない。 「良かった。それならお礼になったかな」 「お礼?」 「一晩のお礼。キスされたから身体でお礼しようと思ったんだけど、そういうのはあんまり好きじゃなさそうだったから」  冗談めかして言いながら、アイリは肩を竦めた。どこまで本気なのかわからない。気軽にベッドに入ってきたところをみると、身体でお礼というのも冗談ではない気もする。そうやって寝床を確保してきたのかもしれない。  だとすると、詐欺師じゃなくてヒモだ。それはそれで、養うだけの財力が俺にはないと知ればここから出ていくだろう。見ればすぐにわかる気もするけど。  アイリは自分でもぱくぱくとフレンチトーストとサラダを食べながら、今日の天気とか棺の寝心地とか、どうでもいいことを色々話していた。まるで長年住んでいる自宅にいるかのように振舞っている。 「冷蔵庫に卵と牛乳しかなくてどうしようかと思ったけど、賞味期限が切れてぱさぱさの食パンがあったからどうにかなったよ。結局はコンビニまで野菜とかを買いに行ったから他のでも良かったんだけどね」  とりとめもない話を右から左に聞き流しながら食べていると、糖分を得た頭がようやく動き始めた。 「……なんなんだよ、お前」 「何って?」  きょとん、と首を傾げた。 「……人間?」  人間にしては、死の匂いが強すぎる。けど、人間じゃないなんて、そんなファンタジーみたいなこと、あるだろうか。  ここはソシャゲの世界でもないし、転生する小説の世界でもない。幽霊も宇宙人も神様も占いも信じてない。 「うーん、どう説明したらいいのかなぁ」  一足先に食べ終えたアイリがフォークを口に咥えた。 「吸血鬼、って言ったらわかりやすい?」  フォークを手に取って天井を指しながら言った。 「……人間じゃない?」  最後の一口を飲み込んで、ごくり、と喉が鳴った。 「人間の一種だと思ってるけど、少し違うかもね」  そんな馬鹿な、という気持ちと、腑に落ちる気持ちが共存していた。死が近い人間や死体とも違うが、死に近すぎる匂い。それに、そういえば。 「……蝙蝠に変身できる? 吸血鬼ってことは不老不死なのか?」 「蝙蝠ならフレンチトーストを作るより簡単。数少ない特技だからね。蝙蝠以外にもなれるよ」  次の瞬間、アイリの姿が消えた。アイリが座っていた場所には艶やかな毛並みの黒のラブラドールがいる。  賢さよりも悪戯っぽさが勝る瞳で水無月の方へ歩いてきて寝そべり、頭を水無月の太腿にぽてんと乗せた。くーん、と甘える鳴き声が愛らしく、ついつい頭を撫でると手首をぺろぺろと舐められた。 「ちょ、くすぐったいって……あっ」  犬にしては妙に丁寧に指を、そして指の股を熱い舌で舐められる。ぞくり、とくすぐったいだけではない妙な感覚が込み上げてきて、思わず声が出た。 「っ、な、にやって……やめろっ」  そのまま足の間に鼻先を寄せてきて太腿をくいくいとつつかれ、慌てて腰を引いて逃げようとしたら、足に乗っている頭が突然重くなった。 「これで信じてくれる? 不老だけど不死ではないかな。たとえば心臓を刺されれば死ぬから。同類に心臓を食べられたりとかね」  ラブラドールの頭があったところにアイリの頭があった。まるで膝枕だ。仰向けに寝転がっているアイリと目が合う。 「わか……りたくない」  常識の範囲で生きてきた。だからこそ、空想が繰り広げられるゲームや小説を楽しめるわけで。 「なんで怖がらないの。普通逃げるでしょ」  言われてみれば常人よりも鋭く長く見える八重歯がアイリの唇から覗いた。すらりと伸びてきた手に髪を梳かれてびくりと固まる。 「逃げる必要なんかない」 「自殺願望があるとか?」  生きたいわけじゃない。死にたいわけじゃないから生きている。痛くて苦しい思いをするのは嫌だ。逃げずに不審者に殺されたとしても、まあ、自業自得だし仕方ないしどうでもいい。  もし死後に幽霊になれて、自分の死体を眺められるならば喜んで死ぬかもしれない、とふと思った。それも自殺願望だろうか。 「……わからない」  ふーん、と言いながらまっすぐに見つめてくるアイリの強い視線に耐えられず、ふいっと顔を背けた。 「俺は君に死んでほしくないって思ってるけどね」  出会ったばかりの不審者に掛けられるには重すぎる言葉にたじろいだ。 「っ、なんで」  冷たい指先が顎に触れ、辿り、ひんやりとした手のひらで頬を包まれた。 「うーん、大切な人にちょっと似てるから、かな」 「吸血鬼なのに?」  大切な人って誰、とまでは踏み込めなかった。 「吸血鬼は別に人を殺すわけじゃないよ。《血の力》を回復するために人間の血は必要だし、お腹が空きすぎて吸いすぎて殺しちゃう吸血鬼とかもいるけど……こわい?」  《血の力》って何だろう。  いつの間にか鼻先でシャツの裾を持ち上げられていて、犬歯が脇腹に突き立てられていた。このままアイリが口を閉じれば、鋭い歯の先が皮膚を破って潜り込んでくるだろう。  それはどれくらい痛いんだろうか。熱いんだろうか。つぷ、と歯の先が皮膚を押した。固い感触。血が刻々と流れ出して、やがて冷たくなっていく自分を夢想した。 「死んでも名残惜しいこともないし」  水無月の言葉にアイリがあはは、と声を出して笑った。笑い声に混ざって電子音が聞こえた。  水無月のスマホだ。メールではなく、電話。画面には高槻秀則と表示されていた。

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