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第9話 不穏
アイリが台所まで下げてくれた食器を片付ける。洗濯も片付けてしまおうと辺りを見回すと、アイリが着ていた水無月のシャツとパーカー、ジャージが折りたたんでベッドの上に置いてあった。
マイペースなくせに案外几帳面な奴だ。洗濯機に入れようと持ち上げると、ふわり、死に似た匂いが――アイリの匂いがした。落ち着く残り香に、思わず鼻を寄せた。
「ん……」
いつもの洗剤の匂いに混ざって、しっかりとアイリの匂いがする。たった一晩。それなのに、こんなものを残していった。穏やかになれるはずの死の匂いに何故かざわつく。ざわつくのに、もっとこの匂いに浸っていたい。手放したくない。
でももう戻ってこないものに後ろ髪を引かれたって意味がないし、落ち着かない理由を考えるのも無意味だ。もう一度深く匂いを吸い込んでから洗濯機に向かった。
手放しがたくなってしまうアイリの置き土産をやや強引に洗濯機に突っ込んだ。もう一呼吸分、往生際悪く悩んでから洗剤を入れてスイッチを入れた。
遺体との一期一会の別れみたいなものだ。ずっと一緒にいられるわけじゃないものは、早く手放した方が良い。
洗濯機が動き始めると、もうやることがなかった。
仕事がない。やることがない。こういう時はだらだらベッドの上でソシャゲをしたり、気に入っている本を読み直したりしてたっけ。つい昨日までの日常なのにすでに遠い。
仕事が好きなわけでは全くないが、やりたいことがあるわけでもない。漫然としたごく平凡な日々を送ってきた。
ニュースになるような出来事に、まさか自分が関わる羽目になるとは思ってもいなかった。不意に気になってスマホを掴み、ベッドに寝転がった。ニュースサイトを開いてみる。
トップページには昨日のことは載っていない。少しスクロールしてみても記載はなく、地名で検索してようやく見つかった。中身は数行で写真もない、文字だけの記事だ。
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三十代男性の遺体の行方がわからなくなり、まだ見つかっていない。都内で遺体が見つからなくなる事例は十四件目であり、警察は同一人物の犯行の可能性もあるとして捜査を続けている。
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もう十四件にもなるのか、と記事を読んで驚いた。今は二月だが、事の発端は一昨年の冬、同じくらいの時期からだったか。一年と少し、この街やその周辺の市では同じニュースが続いている。水無月が今の会社に就職した頃からだ。
最初の頃は物珍しさからニュースサイトでもちょっとした話題になり、コメントもたくさん付いた。『ゾンビは存在した?』『リアル黄泉がえり』だのとセンセーショナルな見出しを打つスポーツ紙もあった。
一か月に一回程度の頻度で事件は発生し続けているが、今となっては風化している。最初の数回は連続遺体失踪事件としてそれなりにニュースバリューもあったが、一年以上続けば、一部のオカルト好きを除けばもう誰も興味は示さない。
今日のコメントも、またあの街か、とか、まだ捕まってないなんて警察は何をしてるんだ税金泥棒、とか、中身のない惰性の殴り書きがいくつかついているだけだ。
当然テレビでは報道されないだろう。当事者にとっては重大事でも、その他大勢にとっては些細な話でニュース性がない。
水無月自身は職業柄無関係とはいえない。水無月と同じ雪灯葬儀社に勤めていて早逝した葬祭ディレクターの遺体も姿を消したと噂で聞いた。
だから最初の頃は気に掛けていたし、不安に思ってもいた。だが今はそれが日常になり、それゆえに関心が薄れ始めていた。
いざ自分の身に降りかかってきて、思い返してみる。意識してニュースを見なくても、同じ業界の中だから自然と情報が集まってきていた。
葬儀会社の規模を問わず被害を受けている。水無月が勤める葬儀社で遺体が盗まれたのも、今回が初めてではない。九回目だ。比較的規模が大きく、葬儀の回数も多いことを考えれば、過半数が自社関連でもおかしくはない。
被害者──もとい、盗まれた遺体の年齢や職業、性別等の決定的な共通点は今のところ見当たらない、というのが話題になっていた頃のニュースの見立てだ。水無月も同じように感じていた。
死因も自殺から病死、事故死まで色々ある。あえていうなら、比較的状態の良い遺体が多かったようだ。
遺体の状態が悪い場合には遺族の前に出る時点で焼かれていることもあって盗みようがないから、これはあまり特異とは言えないかもしれない。仮に遺灰が盗まれていたとして、焼かれて残った骨や灰の一部が姿を消しても気づかれていない可能性が高い。
年齢は小学生から高齢者までまちまちだが、二十代後半から三十代前半にやや偏っている。全体の死亡者は当然高齢の方が多いことを考えると、ここには意図があるように思える。
性別は十四人中の十人が男性。これも意図があるかもしれない。
だが、母数が十四人であるため、有意な差と言えるかというといずれも微妙だ。
素人の水無月が下手に考えたところで解決はしないだろう。実際に何もしていないのだから容疑もそのうち晴れるだろうと期待することしかできない。
ニュースもすぐに見終わり、ソシャゲのアプリにログインすると、ランクインを目指していたイベントは終わっていた。昨日の夜をゲームに費やす予定でいて、そうすれば多少の報酬をもらえる予定だった。
だが遺体泥棒のせいで予定は完全に崩れてしまい、最後にログインしたときから大幅に順位が落ちていて最低ランクの報酬で終わっている。
個人ランキングの一位と二位は面白みもなくシュガーとスノウで、ギルドランキングの一位はその二人が所属する『ほわいとるーむ』だ。
ソシャゲというのはやる気がほんの少し途切れたら終わりだ。ログインボーナスだけ受け取るとそれ以上アプリを触る気も起きず、二度寝しようかと瞼を閉じた時だった。
チャイムの音が鳴り、やる気なく身体を起こした。この家を訪ねてくるのは宅配便くらいのものだが、最近通販した記憶はない。
「はい」
満腹で眠くなっていたせいかもしれない。アイリが忘れ物でもしていったのだろうかと、ほんの微かな期待さえ抱いて、何の警戒もせずにドアを開けてしまった。
「水無月皐サン?」
廊下に立っていたのは見知らぬ男だった。ぼそぼそと低い声は、朝のマンションに配慮してか音量を抑えている。表札も出していないというのに初対面でフルネームを呼ばれ、不信感が募った。
「……どちら様ですか」
水無月よりも前髪が長く、左目は完全に隠れている。きちんと見えているのかどうか疑わしいくらいだ。肩にかかる長さの黒髪には寝癖が付いているのかややぼさぼさだ。
この人も他人と関わりたくないから前髪で目を隠しているのだろうかと考えると少し親近感も湧くが、風体が怪しすぎる。
黒のブイネックに薄い灰色のモッズコートを羽織っている。フードには薄茶のフェイクファーが付いていた。
くたびれた濃紺のジーンズに派手な色のスニーカーを履いていてセールスにも見えない。やや猫背気味で顔がよく見えず、年齢も不詳だ。
「これは大変失礼いたしました。棗 と申します」
水無月と同じくらいに見える身長を曲げて深くお辞儀をした。低い位置に名刺を差し出されると仕事の癖で受け取ってしまう。
棗 学人 。意外にも会社名が書いてあった。日日 通信社。業界二番手の通信社だ。一般社団法人の一番手とは違い、株式会社だ。肩書は記者。
なんとなく、なるほど、と思った。記者というのは大抵胡散臭いものだ、なんて言ったら、真っ当な大勢の人に怒られそうだが。
「それで、何の御用ですか」
記者という人種に良い記憶はない。報道は嫌いだ。被害者の名前を気軽に公開するし、心情に碌に配慮せずに取材に押しかけてくる。葬儀を邪魔されたこともある。
「昨日の現場にいらっしゃいましたよね? 第一発見者だとか」
口元をゆるりと撓らせて笑う表情は、そういう風に作られた能面にも見えた。
「鍵をかけ忘れたんじゃないですか? 怪しい人物をご覧には?」
記者にしては下手すぎる。もっと穏やかに誘導したりして聞き出そうとするものなんじゃないのか。前に記者に関わったのは子供の頃だからあやふやだけど。
わざと煽っているとしか思えない神経を逆撫でする物言いは、水無月が犯人であると確信している口調だ。
「もしくは、遺体の行方、あるいは遺体を盗んだ誰かに心あたりは? 貴方ではないのなら、だれか人影を見たりはしなかったんですか。まさかとは思いますが、遺体が歩いて出て行くところを見たとか、そういうのは?」
はは、と棗は乾いた声で笑って冗談を口にした。
「あなたに話すことはなにもないです」
警察と高槻さんには話した。それ以外の誰かに話すつもりはないし、そもそも話す相手がいない。会社の事務関係の人と庶務的なことをたまに話すくらいだ。
アイリのことは、なんとなく、誰にも何も話していない。アイリに紐づいてしまいそうな、外から聞こえた足音のことも黙っていた。
遺体を盗んだと勘違いされ疑われるのは業腹だ。何が起こったのか解明したい気持ちはあるが、記者に話すべきことは何一つない。
「帰っていただけますか」
「これはこれは、大変失礼いたしました」
大仰すぎて慇懃無礼な態度に苛立ちながらドアを閉めようとすると、ドア枠に足を挟んで妨げられた。さすがに怪我をさせるわけにもいかない。せめてチェーンロックだけでもかけようとし、しかし中にするりと入り込まれて失敗した。
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