10 / 10

第10話 過去の予感

「不法侵入ですよ」  水無月の咎める声も気にせず、棗は部屋の中をじっと見つめた。いくつかの物陰はあるが、ワンルームの部屋は玄関からでも概ね全て見渡せてしまう。 「どうもお腹の調子が悪くて……お手洗い貸していただけませんか」  図々しい、と文句を言う間もなく、棗は玄関からすぐの位置にあるトイレの扉に手を伸ばして開け、中に誰もいないことを確認した。 「お一人ですか?」 「……だから何ですか。早く帰っていただけませんか」 「夜、誰かとこの部屋にいらっしゃいませんでした? 二人分、影が見えた気がするんですが」  棗はカーテンを指差した。誰かと話してらっしゃったようですが、独り言だったんですかねぇ? と付け加えてくる。 「……いつから見張ってたんですか」 「あぁ、やっぱり二人、いらっしゃったんですね」  にこにこと相好を崩しながら笑うと、重苦しい雰囲気が消えて人懐っこい雰囲気さえある。それが逆におそろしい。 「何が言いたい」 「そんな怖い声出さないでくださいよ」  水無月は自分の声が冷えていくのを感じていた。少なくとも昨晩から見られていたということになる。 「水無月サン、昨晩は一人でこちらまでお帰りでしたよね? 今もお一人なのに、夜には二人いた。あなたの後にマンションに戻ってきた人でこのフロアの部屋に入った人がいなかったことは確認しています。階段が一つしかないから見間違えようがない」  棗の意図がわからず、水無月は口を閉じた。不審な男に余計な情報を渡したくはなかった。遺体盗難の犯人だと疑っているとして、ひとりなのかふたりなのかというのはそれ程大事なことなのだろうか。共犯者がいると踏んでいるのだろうか。 「……このマンションに住んでる友達が遊びにきて、自分の部屋に帰っていった」  アイリは何かから逃げている様子で、怯えているようにさえ見えた。だから咄嗟に、アイリという不審者の存在を隠そうとした。  棗とアイリ、どちらも突然目の前に現れた不審な初対面の男だ。それなのに、こんなにも印象が違うのはなぜだろう。 「それはおかしな話ですねぇ? あなたに友達なんていないでしょう?」  確かに水無月の交友範囲は極めて狭い。会社の同僚はあくまで同僚であり、仕事以外の話はしない。  学生時代の付き合いも殆ど残っていない。中学時代から内職バイトに明け暮れ、仕事中はそれ以外のプライベートに踏み込ませることもなく、ろくな人間関係を築いてこなかった。  だが、赤の他人に言われる筋合いはない。 「友達の一人や二人くらい……」  見栄を張ろうとしたというより、見知らぬ他人に自分のことを知られたくなかった。表面を繕うために言いかけた言葉は、すぐに打ち消された。 「知ってますよ」  知るはずがないと思った心の内を読まれたかのようだった。棗が首を横に傾けると長い前髪が流れて目が見えた。  暗い、思いの外強い意思を宿した瞳だ。緑がかった黒。緑が混ざっているせいか濃く澱んで見える瞳は奥が知れず、表面だけが知的にきらりと光った。 「腐りかけの母親の遺体に抱かれて眠ったあの夜から、いや、生まれたその時から、あなたに親しい人なんかいない」 「──っ」  表情を隠せず息を呑んだ。 「あなたは生きて動いている人間が苦手で、死者といる時だけ穏やかな心地になれる。そうでしょう?」  あの時、すぐ傍で腐臭を強めながら朽ちていく母さんの死体からひと時も離れられなかった。動かない腕の中で、ようやく何も心配せずに眠った数日間の出来事。  なんで、そのことを知ってるんだ。誰にも話したことなんかないのに。  気付けば壁際に追いやられていた。棗が壁についた両腕に囲われ、囚われる。ぴくりとも動かない腕が牢にも思えた。 「何が言いたい。俺は盗んでな……」  気の利いた言葉もはったりも出てこず、声を震わせないだけで精いっぱいだ。 「あなたの過去とその性質を世間に知られたら、ますます疑われるんじゃないですか? わらわらと記者が湧いて出てあなたを取り囲み、カメラのレンズやボイスレコーダーが向けられて、ペンの走る音が止まらない……もちろん、私はあなたが遺体を盗んだとは思っていないですけどね?」  語尾をやや高く上げながら嫌らしく笑った棗の吐息が水無月に掛かった。盾にしている前髪が吐息と指とで除けられて、真正面から視線が絡む。昏い瞳がぎらぎらと真夏の太陽みたいに五月蠅く光って俺を楽し気に照らしてくる。  この男は俺と違って、他人と関わりたくないから前髪を伸ばしているわけじゃない。そういう奴はすぐに視線を逸らすのに、こいつは逸らさない。  こいつは自分の本性を隠して存在感を薄めるために目元を隠してるんだ。 「……金もネタも持ってない」 「そんなことないはずでしょう? あの日の真実を知っているのはあなただけだ。あの時警察が見つけたのは、包丁で刺された傷のあるあなたの両親の遺体と、乾いた血塗れの包丁を握りしめた幼い子供」  棗は唇を歪に撓らせて笑った。 「何があったのかを、あなたは一切話さなかった。警察は、一家心中をしようとしたが子供のことは殺しきれなかった、と結論付けて事件を片付けた」  前髪を除けた指が唇に触れてきて、生きた人間の体温に吐きそうになって眉を寄せた。  三人で暮らしていた。父さんはいつも仕事が忙しくて家におらず、大体いつも母さんと二人だった。母さんも家のことで忙しそうだった。  そんな日々は、突然終わった。 「……全部終わってる話だ」  唇に触れる棗の手を叩いて振り払った。気持ちが悪い。俺以外の生きている誰かがここにいることが気持ち悪い。心臓が動いていることが、息をしていることが。俺が生きていることが。  苦しい。息が出来ない。身体が強張る。歯を食いしばる。  嫌な臭いだ、息をしたくない。 「全部終わったというなら、そんな顔をする必要はないでしょう? 今にも息が止まりそうだ。ほら、息をして、吐いて?」  手を払われても気にする素振りはなく、棗は水無月の顎を掴んで強引に口を開けさせた。 「上手ですね、息をするのが」  母さんも父さんも死んで、俺だけが息をしている。 「あなたが殺したんですか?」  直截な一言が、静謐に満ちた洞窟で響く一滴の水音のように、水無月の耳を打って響き、広がった。 「ッ!」  俺が、僕が、殺すわけ、ない。 「良い表情をしますね。もっと虐めてみたくなる」  無意識に固く結んでいた瞼に触れられた。目を開けると、目の前に棗の顔があった。吐息が混ざりあう距離に息を呑んだ。  生の匂いに吐き気がして、動けなかった。唇から顎を辿った指が頸動脈に移動する。自分の心臓が動いているのだと否応なく感じさせられた。生きている自分がいちばん気持ち悪い。 「本当に人間が嫌いなんだな、面白い」 「あんた最悪、だ……ッ」  水無月が苦しむ様子を楽しんでいた。観察していた。緑の鋭い目が水無月の一挙手一投足を見逃すまいと見つめている。  近い距離で会話して、息がかかって、ほんの僅かに触れられただけ。それだけで何も出来なくなる自分が呪わしい。  不意に振動音がした。ちっ、と棗が舌打ちをしてコートのポケットに手を突っ込む。画面を見るなり溜息を吐いて、水無月を見ながら電話に出る。 「悠真? 今良いとこなんだけど」  電話の向こう側にいるのは親しい相手なのだろう。苛立ちを隠さず、砕けた口調で話しかける。  『歩いて帰るなら学人の勝手にして構わないけどね』  相手の声も漏れ聞こえてきた。車のエンジン音も聞こえる。会話から推測するに、電話の相手は棗の足らしい。 「少し待ってろよ」  棗は水無月から視線を外さない。電話相手が多忙かせっかちであるように祈った。  『私は忙しいんだよ』 「けどまだ……」  棗はあからさまに不機嫌になって眉を寄せ、拒絶しようとしている。  『――戻ってきなさい』  電話の相手の声がよく響いて聞こえた。 「……ったく、わかったよ」  相手の提案を断りそうだった棗は、しかしどういうわけか素直に頷いた。不承不承という不満を隠そうとはしないものの、水無月から視線を外す。肉食獣の意識の外に出られた草食動物はこういう気持ちかもしれない。  『それなりに素直に言うことを聞いた、ってことは、もう知りたい答えは見つけたんだね? 流石だ』 「お褒めにあずかりどーも。お前が言うと感じ悪いな」  棗は肩を竦めてスマホを耳から外し、画面をタップした。 「というわけで、急かされたんでね、名残惜しいけれど今日はこれで失礼させていただきます」  電話を切るなり一転、棗は外向きの口調と表情になって玄関のドアノブに手を掛けた。 「あ、そうそう、棺は空っぽだったんですよね?」  思い出した、という素振りで棗が振り返った。 「何か残っていませんでした? 例えば灰とか」 「灰?」  ドライアイスでも花でも遺品でもなく、灰。思いがけない単語を聞き返した時には、棗はドアを閉めて姿を消していた。 「なんで次々……」  水無月とテディベアしかいない部屋で、思わず声に出して呟いた。なにもない日常だったはずが、おかしなことになっていく。棗は嵐のようにやってきて水無月の心情を逆撫でし、掻き乱し、あっという間に去って行った。後には静けさが残っている。  平日の昼前だ。一人暮らしが多いこのマンションの住人はもう大方出払っていて、生活音も殆ど聞こえない。  人の気配が嫌で賃貸にしては防音性能の高い家を選んだから、外の雑踏もあまり聞こえてこない。今度こそチェーンロックを掛けてベッドに戻ろうとしたが、落ち着かない。  記者が来たということは、本当に疑われているのかもしれない。一般的とは言えない嗜好を持っているのは確かで、過去のことと合わせてマスコミにバレたらワイドショーやネットニュースの格好のネタだ。  放っておいてくれと言ったところでそうしてくれないことはよく知っている。母さんと父さんが死んだときもそうだった。  早く静かに暮らしたい。何も起こらない変わりのない毎日の方がいいに決まってる。  洗濯機が一仕事終えて鳴いている。狭いベランダに続く窓を開けると、丁度ベランダに止まったカラスと目が合った。カラスは二度鳴いてからどこかへ飛んで姿を消した。  洗濯機に向かおうとして、靴箱の上に文庫本が置いてあることに気付いた。  ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの『ファウスト』。  アイリか棗の忘れ物だろうか。  出所のわからないそれをなんとなく手に取った。

ともだちにシェアしよう!