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第11話 ファウスト

 今日は雨の予報だ。  洗濯物を部屋の中に干せば仕事は終わった。  そうするともうやることもなくなって、だが落ち着かず、テーブルに置いておいた本に関心を向けた。  ゲーテの『ファウスト』。俺でも名前は知ってるし、タイトルも有名だ。ファウストはソシャゲや漫画に出てくるキャラクターの名前によく使われていて、マッドサイエンティストみたいに描かれることが多い気がする。  ゲームをやる気も起きず、読みたい本も漫画もないし、ネットの配信にも興味を惹かれない。  もしアイリが忘れて行ったのなら、アイリがこういう本を好きなのかもしれない。もしそうなら、少し興味がある。棗がわざと置いていったのなら、それはそれで意図が気になる。  名前だけは誰もが知っているほどに有名で、漫画や小説のキャラクターの名前にされていて、なんとなく知った気になってるけど、実際の中身は全然知らない。そんな本が多分山ほどあって、『ファウスト』もそのうちの一つだ。 「なんだこれ……」  ベッドに寝転がり本を開いてすぐ、読むのを止めようかと思った。合わない小説を読みながら寝てしまうことはよくあるが、これは小説でもなかった。詩だ。読みにくい。  しかも、なにか物語とは関係なさそうなところから始まる。  まえがきみたいな「薦むる詞」とかいう章で始まって、その後に何故か座長と詩人、道化が劇について語り合う「劇場にての前戯」が挟まる。どうも戯曲らしい。  その次の「天上の序言」でやっと話が始まる。最初に登場するのが、主と天使と、悪魔のメフィストフェレス。  神や天使、悪魔っぽいキャラクターが出てくると、なんとなく無条件でテンションが上がってくる。自分には手が届かないものや、現実には辿り着き得ないものに憧れるからだ。  でも今は違う。吸血鬼らしきものが存在すると知ってしまった。そんな時にこの本が現れた。もしかしたら何かの役に立つかもしれないと、文字を追うことにした。     ♪天上の序言  日々退屈していたメフィストフェレスは主の被造物である人間を小馬鹿にするが、主は真面目なファウストを例に出してメフィストフェレスの意見を否定する。  そこでメフィストフェレスは、ファウストを誘惑して悪魔の道に引きずり込むことが出来たら彼の魂をもらう、という賭けを主に持ちかけた。  主はメフィストフェレスと合意し、二人の賭けが成立する。     ♪悲壮劇の第一部  舞台は地上だ。  ファウストは博学で尊敬される人物だ。だが博士自身は、得られたものは地位ばかりで、恐れと歓喜を失ったと打ちひしがれていた。  一人で部屋にいる時、褐色の毒に目を奪われる。絶望と決意を胸に毒杯に唇で触れ、まさに呷ろうとした時、鐘の音が鳴り響いた。復活祭の鐘の音だ。力強くやさしい奇蹟の響きがファウストを塵の中に引き止めた。  ファウストは復活祭に浮かれる街で弟子や市井の人々からの敬愛を一身に受けるが、やはり満たされなかった。  帰宅する道すがら出会った黒い尨犬に奇妙な縁を感じて連れ帰る。尨犬は化物だった。尨犬は書斎に入るなり姿を変え、恐ろしい歯並びを見せた。  化物にまじないで立ち向かったファウストは、化物に四大元素が含まれておらず、下界のものではないことに気付く。尨犬は象の大きさに膨れた後、旅の書生の装いをした男に転じた。  男は「常に悪を欲し、却て常に善を為す、彼力の一部」だと名乗る。  それが悪魔メフィストフェレスとファウスト博士の出会いだった。  メフィストフェレスはファウストに次の契約を持ち掛ける。  メフィストフェレスは現世ではファウストに身を委ねて下僕となる。その代わり、ファウストが満足したならば命を落とし、死後の魂はメフィストフェレスの家来となる。  満足したときとはすなわち、ファウストが「ある刹那」に「まあ、待て、お前は実に美しいから」と言った時だ。  合意したファウストは血を交わして契約を結び、空飛ぶ魔法の外套に乗って、二人の旅が始まった。  魔女の霊薬を与えられて若返ったファウストは、純朴で信心深い少女、マルガレーテに一目惚れする。  メフィストフェレスは恋を成就させてファウストを満足させるべく、どうにか探しだした財宝をファウストからの贈り物としてマルガレーテの部屋に忍ばせてみたり、マルガレーテの隣の部屋に住むおばさんを懐柔したりと人間臭く奔走する。  メフィストフェレスの努力の甲斐あって、ファウストはマルガレーテと結ばれる。だが、ファウストがメフィストフェレスに誘われてワルプルギスの夜を楽しんでいる間に、マルガレーテが投獄されてしまう。  ファウストとの逢引のために母親に多量の睡眠薬を飲ませ、誤って死なせてしまった殺人の罪だ。錯乱したマルガレーテは、ファウストとの間に生まれた子供まで殺してしまった。  ファウストはマルガレーテの運命を嘆き、メフィストフェレスを罵倒する。メフィストフェレスはマルガレーテだけが悲惨な運命にあっているわけではないのだからと素っ気ない。  それでもファウストはマルガレーテを助けに向かうが、獄中のマルガレーテは正気を失ってしまっていた。  現実と幻影を彷徨うマルガレーテは、なおも敬虔だった。逃げようと説得しても彼女は聞こうとせず、警吏の戻ってくる時間になってしまう。  メフィストフェレスに急かされ、ファウストはマルガレーテを残して立ち去る。  『ああ。己は生れてこなければ好かった』  ファウストは慟哭し、マルガレーテは天にまします父に祈る。  メフィストフェレスは、これが処刑(しおき)だと言う。  どこからか、これは救いだと声が響いた。      悲壮劇の第一部までを読み終えて、水無月は長い長い息を吐き出した。  気付けば息を止めて読んでいた。物語はままならない現実を忘れさせてくれる。  古典なんてどうせつまらないと決めてかかって読み始めた『ファウスト』は意外にも面白く、なろう系悲劇とでも呼べるような話だった。  年老いて絶望した主人公が若返ってイケメンになり、魔法を使って無双の旅をし、恋をし、離別する。  メフィストフェレスは皮肉屋で、軽薄で、軽妙に誘惑する悪魔だ。きっと、一緒にいたら楽しい。そんな風に思わせられる人物で、惹かれてしまう。  メフィストフェレスとファウストのやり取りは軽快で笑えるし、心情も風景も描写が綺麗で引き込まれた。会話文だけなのに風景が浮かんできて、その場の空気感が伝わってくるのだ。なんだかドラマCDみたいだった。  時よ止まれ、汝は美しい。  どこかで耳にしたことがある言葉の意味を、ようやく知った。美しい『汝』は恋人でも偶像でもなく、『時』だったらしい。  一方で違和感もあった。ファウストの魂がファウストのものではなく、当然のように主のものなのだ。でもまあ、そういう時代と信仰なのだろうと思えば納得できる。  この本をアイリと棗のどちらかが置いていったとして、それはわざとなのか、うっかりなのか。わざとなら、その意図はなんなのか。  糸口は全く見えないまま、単に物語に魅かれて第二部を読み始めようとし、外が真っ暗になっていることに気付いた。時間の経過も忘れるほど没頭していたらしい。  何も食べていないが腹も空いていない。だが時間を自覚して、眠気も自覚した。肩と首が重い。  丁度きりが良い。アイリもいないしやることもないんだから、続きはいつだって読める。  第二部を開くのはやめて、シャワーを浴びて、ベッドに戻る。 「……おやすみ」  アイリの代わりにテディベアに話しかけ、アイリの代わりにならない短い手を握って、小さな睡魔を無理矢理辿った。

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