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第22話 選ぶ先
狭いバスルームで、シャワーからぬるい温度の湯を出した。シャンプーを手に取って髪をごしごし洗う。頭皮を強く擦り、髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜた。生の匂いを吸い取った泡も気色悪くて、勢いを強めたシャワーで流す。
タオルにボディソープを馴染ませ、何度も身体を擦った。身体を洗い流せば、やはり髪から臭いがしている気がして、もう一度シャンプーを手に出した。濡れた髪をもう一回洗う。シャワーで流す。
眉毛を強めに擦りながら顔を洗って、もう一回、身体の隅々まで洗う。脇、指の股、手の指の爪の間、足の指の爪の間、陰毛、髪、眼球。全てに臭いが沁みつき、入り込んでいる。
違う。
自分の匂いだ。
洗っても洗っても臭いがとれない。とれるわけない。気持ち悪い。
シャンプーを流し、そろそろ大丈夫かとコンディショナーで洗い、それでもやはり臭いが残っていて、またシャンプーで洗う。身体をタオルで擦り、顔を洗って、流す。
繰り返し、繰り返す。
何度洗ったかわからない。どれくらい洗い続けているかわからない。足りない。
浴室のドアが開く音がした。
「皐? まさか倒れてたり……っ、肌、赤くなってる。もう十分洗えてるよ」
「まだ……汚れてる」
アイリはシャワーに濡れるのも気にせず浴室に入ってきて、水無月の持つシャワーヘッドを取り上げた。
「返せ!」
「だめ」
髪は流し終えたところだった。身体の泡だけ流される。シャワーを取り返そうとしても背の高いアイリには敵わず、そのまま抱きすくめられた。
「っ、やめ……触る、な。汚いから」
腕の中で暴れてみてもアイリからは逃れられず、かえって強く止められる。
「記者に何言われたの? 嫌なこと……思い出した? 魘されてた夢のこととか」
思い出したんじゃない。ずっと覚えてる。
「俺は……俺が、殺したから、母さんを」
「……そっか、俺と同じかもしれないね」
アイリは悪いとも良いとも言わず、ただ、同意した。
アイリの腕の中で、自分の身体の力が消えた。
「同じだから……もう少しだけ、一緒にいてもいい?」
アイリの声が響いて、ばさりと、頭からタオルを掛けられた。アイリの顔が見えない。質問には答えられなかった。
タオルで拭かれ、スウェットを着せられ、髪を乾かされた。ドライヤーの音がうるさい。
キッチンでは鍋がぐつぐつ音を立てている。野菜のやわらかい匂いがした。
アイリは何事もなかったかのように鍋を掻き混ぜている。
「本当に料理しないんだね。鍋も全部、新品みたいだった」
「……母さんは、してた」
母さんはいつも料理をしていた。いろんな料理を作っていた。カレーは勿論、どんな料理も作れた。ケーキだって手作りだった。
「カレーも?」
「……あぁ」
目を瞑ってキッチンの光景を思い出す。ここよりも大分広かった気がする。
「なんか、小さな瓶がいっぱい並んでた。多分スパイスだったんだと思う」
「時間ないからルゥ買ってきちゃった。今度はスパイスから作るよ」
アイリが軽く肩を竦める。
「嫌味言った、わけじゃなくて」
「わかってる。でも、料理の時間が長い方が皐といっぱい一緒にいられるでしょ?」
ほとんど使っていないせいで汚れのないまな板の上には野菜の切りくずが残っていて、鋭利な包丁が置いてある。とてもよく切れそうな包丁。何気なく伸ばした手を、アイリに掴まれた。
「洗っておくから、休んでて平気だよ。ほら、シャワー浴びたんだし今度こそベッドで」
ぐいぐいと押され、強引にベッドに寝かされた。子供を寝かしつけるみたいに毛布で包まれ、ぽんぽんと身体を軽く叩かれる。
「……なんか子供扱いされてるみたい、っていうか……」
「嫌?」
「変な感じ……母さんが俺に触ろうとすると、父さんは母さんを殴ったから」
「皐も殴られたり、した?」
ぐつぐつと煮立つ鍋の音。ぎらりと鈍く輝く包丁。
「……うん」
頭から毛布を被って、目を瞑った。眠いわけじゃない。ただ、何も考えたくなかった。
父さんのこと、母さんのこと。
俺だけ生きてること。
眠れないままでいると、カレーらしい香りがしてきた。
「食べられそう?」
「……食べる」
毛布の薄闇の中にいたおかげか、忙しなくざわめいていた気分は大分落ち着いていて、ベッドからのそのそと出た。アイリが作ったものを食べたいと思った。
小さなテーブルにはもうカレーが二皿、置かれていた。昔は三皿だった。俺だけ一人、離れた場所で食べてた。
「家でカレー食べるの……久しぶりだ」
「昔は食べてたの?」
アイリはカレーを口に運びながら軽い調子で言った。
「母さんがよく作ってた、気がする」
一口、スプーンでカレーを口に運ぶ。昔の記憶は殆ど全てが曖昧だ。はっきり覚えてて忘れられないのは、あの日のことだけ。
誰にもしたことのない話をアイリにしようと思ったのがどうしてなのか、わからなかった。
「あの日もカレーだった」
あの時のカレーとは味も全然違う。あの頃は子供向けの甘口のカレーだった、気がする。でも途中から辛くなったんだっけ、父さんが不満そうだったから。アイリが作ってくれたのは子供には少し辛すぎるだろうカレーだ。今の俺には丁度良くて美味しい。
「あの日って、記者たちが言ってた話? 何があったのか、聞いていいの?」
向かいに座ったアイリはカレーを掬いながら首を傾げた。
「……聞きたくないだろ」
「皐が話したいことは、聞きたいかな」
アイリが作ってくれたカレーを口に運ぶ。
忘れようとしてたのに、昔みたいに記者に囲まれて、情けないところをアイリに見られた。それでもアイリはここにいてくれる。その理由がわからない。いつか、もしかしたら今すぐにでも、いなくなってしまうかもしれない。
それは嫌だった。
「父さんはいつも家にいなかったし、母さんはいつも家にいた」
気付けば、スプーンを握りしめたまま、話を切り出していた。
お父さんはいつも忙しいの。お外でお仕事をしているのよ。私と皐のためにね。お父さんが働いてくれるから、私たちはこうやって生きていられるのよ。
痣だらけの顔で、母さんは口癖みたいにいつも言っていた。物心ついたときにはそうだった。
「今思えば、父さんはただ生きるために必死で働いてただけなんだと思う。帰ってきては、母さんを殴ってた。最初は身体だけだったけど、顔にも傷が増えて、変な方向に曲がってる指もあった。骨が折れて、そのままにしたのかも」
アイリはスプーンを皿の上に置いて水無月の方を見た。何も言わず、促しも止めもしない。
「思い出せる一番古いことは、父さんに殴られたこと」
それが本当に一番古いのかどうかは自信がない。殴られた記憶ばかりが残ってるから、もしかしたら順番が違うかもしれない。
「母さんの伸び放題になった長い髪が一本、俺に付いてるって父さんが言って。それで僕は、蹴られた。殴られた。間に入った母さんは、もっと酷かったと思う。痛いよりも、怖かったのかも。血塗れになった母さんの顔はよく覚えてる」
あれは父さんなりの独占欲だったのかもしれない。母さんはよく泣いてた。ぼろぼろ泣いて、何度も僕と父さんの間に立った。
こんな退屈な話をアイリがどんな顔で聴いてるのか、それか聴いていないのかなんて見れなかった。アイリは膝で立ち上がり、水無月の隣に座り直した。関節が白くなるほど握りしめていた拳を撫でられ、解され、スプーンを取り上げられた。
代わりに手を繋がれた。頭を引き寄せられるままにアイリの肩に頭を乗せると、鼓動が聞こえる気がした。心臓の音。
「その日から、母さんは僕に殆ど触らなくなった」
父さんは時々甘いお菓子を買ってきて構ってくれたけど、やっぱり僕には触らなかった。いつもカーテンが閉まったままの薄暗い部屋にいた。幼稚園にも保育園にも行かなかった。そういう場所があることは、テレビかなにかで知った。
「だからずっと、テレビや本を見てた。父さんが買ってきてくれたゲームをしたりもしたし、それも退屈になって、落ちてた新聞を、難しかったけど読めるところだけ読んで、父さんに叩かれたり」
小学校にも行かなかった。小学校ってもののこともテレビとか漫画とかで知ってたけど、それは僕には関係のない、物語の中にだけあるものだと思ってた。ペガサスと同じだ。
「八歳になった頃だった、と思う。多分、ほんとなら小学校に入学して、何年か経ってるはずの日だった気がする。きっと冬の日だった。家から出なかったからよくわからないけど」
時間も季節も温度も、全ての感覚があいまいだった。
毎日が同じで、新聞の読める範囲が少しずつ増えていくくらいで、そもそも時間とか、季節とか、そういうものが現実にあることをよく理解できていなかった。
空調で温度が保たれ、窓もカーテンも締め切られた家の中が全てだった。それ以外は全部、本や新聞やテレビの中の出来事。
「その日は、母さんは朝からずっと料理をしてた。今日はお父さんが偉くなるからお祝いなのよ、って言って、僕の好物のカレーも作ってくれた」
アイリの手の甲に爪を立てる。息が浅く早くなる。背を撫でられた。
「……話したい?」
情事とは異なる声音で耳元で囁かれて、首を縦に弱く振った。ずっと誰かに聞いてほしかったのかもしれない。その相手がいなかっただけで。
「父さんはいつもよりもずっと早く帰ってきた。まだ明るかった」
話し続ける俺の肩をアイリが抱いてくれて、それに甘えた。こんな話をしたらアイリは去っていくかもしれないし、だからこれが体温を渡してもらえる、体温を渡すことができる、最後かもしれない。
「背伸びして玄関のドアを開けた僕のことを、父さんはいきなり蹴った。僕は蹴り飛ばされて壁にぶつかって、吐いた。こんなところまで出てこさせて、誰かに見られたらどうするんだって、父さんは母さんを叱った。キッチンで野菜を切っている母さんの所に父さんは向かっていって、母さんがなにか言って、父さんは母さんを殴った」
殴られてるのに、あの時の母さんは静かに笑ってた。今日は皐の好きなカレーだよ、なんて言ってたっけ。
「それから父さんは、綺麗にサラダが盛り付けてある皿を、僕に向かって投げた」
僕は手を前に出して顔を庇ったけど、そんなことをする必要はなかったんだ。父さんは滅茶苦茶な場所に投げてて、皿は僕が転がってる場所よりもずっと手前に落ちて、割れる音がした。
「父さんが呻いて、床に倒れてた。だから僕に皿が当たらずに済んだ。キッチンに立ったままの母さんの手は真っ赤で、包丁を持ってて」
ごめんね、何も出来なくて。母さんは何度も繰り返しながら、包丁を持ったまま僕の方に近付いてきた。
「床の上に座り込んだままだった僕のところまで母さんが来て、しゃがんだ。見上げる位置にある母さんの目と目があった。母さんはいつも泣いてばかりいたけど、その時は泣いてなくて、僕の方に手を伸ばしてきた。母さんの手が僕に触れそうになったとき、僕は、咄嗟に」
その先を言えなかった。僕は逃げた。抱き締められると思った。ずっと望んでいた腕だったのに、僕はあまりに慣れてなくて、怯えて、逃げて。それで。
「それで、母さんは『あいしてる』って言って、自分の首に、包丁を」
ぎゅう、とアイリに抱き締められた。あの時に降り注いで僕を包んだ母さんの熱い血よりも確かに、僕を抱き締めてくれる。母さんはぐしゃぐしゃの顔で悲しそうに笑ってた。僕が拒否したから。
「その後のことはあんまり覚えてない。後から聞いた話だと、俺は、それから一週間くらい経った頃に、母さんの腕の中にいるところを見つかったらしい。母さんが作って父さんが食べなかった料理を食べてたのかも」
その間、父さんには殴られなかったし、母さんは優しく抱いていてくれた。あたたかかった。母さんと父さんの匂いに包まれてた。母さんの料理もきっとおいしかったと思う。週に何度か見回りに来てた役所だか警察だかの人が僕たちを見つけたらしい。
僕が、俺が、いなかったら、あの人は、あの人たちは、死ななかった。
俺が母さんを、あの人を、殺したんだ。
「悪い。変なこと話した」
ううん、とアイリは目を瞑って首を横に振った。
「俺に話してくれて、ありがとう」
「っ」
アイリは綺麗で愛想も良くて、俺なんかじゃなくたって、一緒にいる相手はいくらでもいるはずだ。それなのになんで俺といるんだろうって、思ってた。
ひとつのベッドで一緒に眠れたのはアイリが初めてだ。テディベアと違って、話をしてくれて、抱き締めてくれた。交換するみたいにふたりで悪夢も見た。
アイリは夢を見ながら泣かずに泣いていた。だから、同じような奴がここにいるんだと伝えたかった。アイリと同じなのは俺だけだって、大声で伝えて引き止めたかった。子供みたいな独占欲で、騒ぎたかった。
飄々としてるくせに綺麗な顔の奥で泣きそうで怯えていて、全然違うはずなのにどこか似ている気がする、そんな生き物。
アイリのことがもっと知りたくて、何がアイリを苦しめているのか知りたくて、体温を渡し合ったみたいに、秘密を渡し合いたかった。
そんな狡い思いで、ゴミ箱に捨てたままにしておいた方がいい話をしてしまっていた。それが出来ないくらいなら、長く一緒にいるよりもいなくなってしまったほうが、短い夢にしてしまった方がいいと思って。
「ねぇ、皐」
アイリの平坦な声が、何かの感情を帯びないままいてくれればいいと思った。背や頭を撫でる手はいつの間にか止まっていて、水無月を強く抱きしめる腕も緩んでいた。
今ならいくらでも抜け出せる。アイリの顔を見上げられる。でも両方とも、できなかった。
「俺のことは、気持ち悪くないんだよね?」
「……気持ち悪かったらとっくに股間蹴って逃げてる」
もっとマシな言い方が出来たらいいのに、突っぱねることしかできなくてどうしようもない。どうしようもない馬鹿だ。泣いて縋るのと、どっちが馬鹿じゃないだろう。
「吸血鬼になりたいって、思う? 俺と一緒の、吸血鬼に」
アイリが俺に吸血鬼になってほしいのか、なってほしくないのか、わからない。
泣きそうな声をしてたことがあったっけ。それはなんでだったんだろう。
【選択肢】
➡なりたい
なりたくない
わからない
※「なりたくない」「わからない」はフリーゲーム「偏愛ネクロマンチシズム」でお楽しみください。
※掲載分は「なりたい」を選んだ場合の物語です。
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