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魔物

 どのくらい経っただろうか。  じわり、と斜め後ろから嫌な気配を感じた。  目を開けば、木々の隙間から僅かに見える空の星は、目を閉じる前より手のひら分ほど傾いている。  ロッソとリンデルはまだ寝ているようだし、相手は気配から察するに一体だ。  男は音を立てずに立ち上がりながら、髪を掻き上げた。  鳥を降りてから、男はもう左目を隠してはいなかった。  術の効く相手であることを祈りつつ、男が魔物の方へ歩を進めた瞬間、リンデルの声がした。 「俺が行くよ」 「いえ、主人様はお休みになっていてください」  ロッソの声も続く。  まさか、この二人は眠っていてもこの距離から魔物の気配に気付けるのか?  男は内心唖然としつつも、魔物のいる方向から目を逸らさぬままに「虫じゃなけりゃ、追い返しとくよ」と答える。  カースの瞳は人だけでなく魔物も操ることができたが、なぜか虫系の魔物にだけは効かなかった。  いや、効かないというのは正確ではないか。  術をかけることはできるものの、言葉が通じないのかその先の指示を入れることができない。というのが正しい。  しかし、甲冑を着たまま寝ていたリンデルの、カチャカチャという足音は躊躇いなく男に近付いた。 「この先カースに頼る事が増えると思う。だから、今は温存しといて」  そう男に告げると、リンデルはそのまま横を通り過ぎ、暗い森へと消えた。  その後ろに、ぴたりと一定の距離を保ってロッソが続く。  二人の背を見送りながら、男は一つ息を吐いた。 「……敵わねぇな」  元の場所に座り込み、男はまた背を木に預ける。  魔物の気配は、いわゆる殺気とは違う物だった。  なんとも背筋がゾッとする、吐き気を誘うほどの嫌悪感……。  カースには覚えがあった。  昔、まだカースが少年だった頃、あの頃の盗賊団に女はいなかった。  団員も若い連中ばかりでいざこざも多く、時折むしゃくしゃした奴の苛立ちをぶつけられ、嬲られることがあった。  ゼフィアはあの性格だ。  俺から目を離しはしなかったが、男達を止める事はなく、それどころか焚き付ける有様だった。  俺を暴こうとする奴の顔は、どいつも似た様なもんだった。  悔しさや寂しさを全部混ぜ込んだような衝動を、欲望にすり換えて俺に叩き付ける。  そんな時の、あいつらが放っていた気配。  魔物の気配は、それと同じだった。  男は舌打ちをひとつ打つ。  やけに鮮やかに蘇った記憶は、男の胸に次々と暗い感情を呼び起こす。  カチャカチャと向こうから甲冑の音が僅かに聞こえてくる。  こんな顔を、リンデル達には見せたくない。  男は膝を抱えると、腕の中に顔を伏せた。 「ただいま、カース……。あれ?」  戻ったリンデルが、カースの姿に首を傾げる。 「厳しい山道でしたから、お疲れなのでしょう」  ロッソはカースが寝ていると思ったのか、さして気に留める様子も無くそっと毛布をかけた。 「火の番は私が致しますので、主人様はお休みになってください」  声をかけロッソが振り返ると、リンデルは、まだその場に立ち尽くしたままカースを見つめていた。 「いや……。俺が起きてるよ、ロッソは寝てて」 「ですが……」 「ひとつ頼みたいんだ」  ロッソは主人の声がいつもより低いことに気付く。 「なんなりと」  姿勢を正して指示を待つロッソに、リンデルは「しばらく、俺達の会話は聞かなかった事にして」と頼むとロッソに睡眠を取るよう促した。  ロッソがこちらに背を向けて横たわるのを視界の端で認めつつ、金色の青年は男の浅黒い肌へと手を伸ばす。 「カース……、寝てないよね?」  グローブを外したリンデルの長い指が、男のこめかみから細い黒髪を掬う。 「……っ」 「何かあったの?」  耳元で囁くように尋ねられて、男は呻くように答えた。 「……何もねぇよ……」 「顔を見せて?」 「……放っといてくれ」 「ごめん。今は敵地の中だから、それは出来ない」  男はしばらく沈黙を続けていたが、観念したようにじわりと顔を上げた。  毒に侵されたような男の表情に、リンデルの瞳が痛みを堪えて揺れた。 「……酷い、顔だろ。悪ぃな……」  男が苦笑を浮かべようとして、諦める。  その行為に、ただ痛々しさが増した。 「……どうしたの……?」  尋ねながら、リンデルは男の頬へ、瞼へと口付ける。 「何でもねぇよ……。ただ……ちょっと、嫌な事を思い出しただけだ」 「……話してもらえる?」  男は真っ直ぐ見つめてくるリンデルに引く気がない事を察すると、仕方なしに話し出した。 「カースの感じた事は、その通りだと思うよ」  男の話を聞き終えて、リンデルはそう言った。  金の瞳が、男の森と空の瞳を順に覗き込む。  先ほどまでそこに浮かんでいた暗い色は大分薄れている。  リンデルに話したことで、少しは心が落ち着いたのだろうか。  金色の青年は、男の頬を両手でそっと包むと、まるで壊れ物にでも触れるかのように優しく優しく口付けた。  リンデルにとってカースがどれだけ大切な人なのか、カースにもう一度思い出してもらえるように。愛を込めて。  ふ。と男の口端が上がって、リンデルはそっと唇を離す。 「もう、大丈夫だ。ありがとうな」  いつもの苦笑に近い表情を浮かべる男に、青年もまた微笑んだ。  リンデルは男へもう一度口付けると、名残惜しげにその手を離す。  男は、青年の顔が勇者のそれに変わる瞬間を目にする。  リンデルは、くるりとロッソを振り返り、告げた。 「ロッソも聞いてほしい」  声をかけられて「はい」と答えたロッソが体を起こしこちらへ向き直る。  リンデルは二人の顔を順に見て、周囲の気配をもう一度探ってから、慎重に口を開いた。 「この先で、俺達は魔物を生み出す者に出会うと思う」 「生み出す……者……?」  ロッソが、初めて耳にした単語を繰り返す。 「うん。でも、俺はそれを倒そうとは思ってない。できれば、その人を助けたいと思ってる」 「人……?」  カースが小さく口の中で疑問を唱えた。 「詳しく説明していただけますか?」  ロッソに問われて、リンデルは話し出した。  半年の間、城で調べて分かった全てを。

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