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爆弾│来ない発情期

 ビルの外が暗くなってから、だいぶ時間が経っていた。嵐はオフィスに残り、発情期で急遽休暇に入ったオメガの担当していた案件の引き継ぎを行っていた。メール対応と資料の整理、それから電話対応に追われていた。 「あー、オメガっていいッスよね、発情期って理由で休めて」  ふと、嵐から少し離れた席からそんな声がした。嵐が手を止め、声がした方へと目を向ける。若手の彼がオフィスチェアにだらしなく背を預け、天井を見上げているのが見えた。嵐は再びPCへと視線を戻す。 「三浦、口を慎め。仕事をしろ」 「いいじゃないですか~これぐらい」 「ハラスメントになる。……少なくともここでは零すな」 「はいはい」  嵐はそう釘を刺す。しかし発情期で休んだ社員の、打ち合わせ資料作成の続きを引き受けたのは彼だった。  そんなことを思い出しながら、嵐は海外メーカーから届いた見積書を確認していた。納期がずれれば契約書の条項も修正しなければならない。 「黒川主任も早く帰ったらどうです?」 「それはそうだが……連絡はしたからいい」 「連絡? 誰か家で待ってるんすか?」  三浦がふと顔を上げる。言ってから、嵐は口を噤んだ。三浦には凪のことは家政婦と説明してあったことを思い出す。 「明日香だ」  そう言い直すと、三浦は「ああ」と納得したように口にした。 「いやてか、明日香さん来てるんなら終わったあとで三人で飲みませんか? てか俺も主任の家行っていいすか?」 「ダメだ」  嵐がぴしゃりと言うと、彼は「えー」と不貞腐れながらも、渋々PCに向き直った。  凪はどうしてるだろうか。先に食べてていいとは言ったが、果たして本当にちゃんと食べているのか。  嵐の手が止まりそうになる。新着メッセージの通知が来ていないか、嵐はデスクの端に置いてあるスマホが少しだけ気になった。  画面の端で通知が一つ点滅した気がして、嵐は無意識に視線をやった。だが光っているのはメールの受信だけだった。手を戻す。見積書の数字を追う。桁を一つ見誤れば全部が崩れる。わかっているのに、意識の端が落ち着かない。  ――食べているだろうか。  あれだけ言っても、凪は平然と抜く。腹が減っても言わない。体調が悪くても言わない。嵐は小さく息を吐き、キーボードを叩く速度を上げた。終わらせる。それだけだ。 「主任、これどっちでいきます?」 「そっちだ。条項は五条を修正しろ。納期に合わせて罰則も動かす」 「了解っす」  短く指示を出し、嵐は一気に資料をまとめる。二十分。三十分。時計を見ないようにしながら、手だけを動かす。ようやく一区切りついたところで、嵐は椅子の背に体を預けた。  スマホを手に取る。ロックを外す。通知はない。  嵐は数秒だけ画面を見つめ、それからメッセージを打つ。 『食べたか』  送信するが、既読はつかない。 「主任、もう上がります?」 「……ああ。ここまででいい。残りは明日だ」 「おつかれっす」  端末を落とし、最低限の片付けだけ済ませる。鞄を持って立ち上がると、足が自然と速くなる。エレベーターを待つ数十秒がやけに長い。ドアが開くと同時に乗り込み、階を降りる。  外に出ると、夜気が冷たかった。車に乗り込み、エンジンをかける。信号の列に滑り込みながら、再びスマホに視線を落とす。まだ既読はない。  ――寝ているのか。  それならそれでいい。起きていても、無理をしていないならいい。  そう思うのに、アクセルを踏む足に少しだけ力が入る。  帰路の途中、コンビニの明かりが目に入る。嵐は一瞬だけ通り過ぎかけて、ウインカーを出した。  店内でゼリー飲料とスープ、それから栄養ドリンクをカゴに入れる。ついでに目に入った小さなプリンも一つ。甘いものは食べる。あいつはそういう顔をする。  会計を済ませ、袋を助手席に置く。  車を出してすぐ、スマホが震えた。赤信号で止まり、画面を見る。  凪からの返信が来ている。 『はい。食べました』  短い一文。既読の時刻は今になっている。  嵐は数秒、画面を見つめたまま動かなかった。  ……本当に食べたか。  疑いがよぎる。けれど、問い詰めることでもない。 『わかった。もうすぐ帰る』  それだけ打って送る。  信号が青に変わる。車を発進させながら、嵐は前を向いた。胸の奥に残っていたわずかなざらつきが、少しだけ静まる。  帰れば、わかる。  ようやく家に帰れたのは、日付が変わるぎりぎりの時間だった。 「お帰りなさい。……今日は、いつもよりお疲れですね」  凪が時計を見る。嵐は凪に鞄を預け、コートを脱ぐ。 「すまない。今日から女性社員が一人産休に入るのと、後輩が一人発情期で休みに入った。その分の業務に追われていただけだ」 「そうだったんですね」 「産休も発情期も、重なると現場が回らない。管理ぐらいちゃんとするべきだ」  嵐はそう言って、凪にコートを渡す。凪の手が止まる。どうした、と思い視線を止めた瞬間、嵐は凪もオメガであることを思い出した。どこか緊張した空気が張り詰める。しかし凪はなにごともなかったかのように、淡々と自分の仕事をこなす。 「先に風呂に入る」 「はい。……ご飯、あたためておきますね」 「ああ」  そうして嵐は風呂に向かう。  その時ふと、嵐は違和感に気付いた。  凪がこの家に来て、二ヶ月ほどが経つ。オメガの発情期は個人差はあるものの、だいたいが一ヶ月おきに一週間ほど続くことがある。けれど凪にはそれがない。発情期特有の甘い匂いもない。  下着になってからそれに気付いた嵐は、ふとリビングに戻る。ほとんど裸の状態で現れた嵐に、凪は見るからにたじろいだ。 「なあお前、発情期はどうした。……抑制剤は?」  構わずそう聞くと、凪は目を逸らす。 「あ……市販の薬で調節してます」 「見せろ」  嵐は凪に迫る。凪は一歩後ずさった。 「……ちょうど切れてしまったので、今度買った時に見せます」 「そうか」  凪が静かにそう答える。だが、まだ引っかかる。  家の中で、薬のゴミを見たことがない。薬局のレシートには、あっただろうか。  とはいえ掃除と洗濯は完璧だし、凪はいつもゴミをすぐに出してしまう。最近はそんなにレシートをいちいち細かく見ているわけでもないし、オメガが薬をどこで入手しているのか、嵐は詳しく知らない。もしかしたら抑制剤が市販薬として出回っているのかもしれない。  そう考えた嵐は、静かにバスルームへと戻ろうと引き返す。  ――気のせいか。  改めて、洗面所を見回す。洗面所に置いてある歯磨き粉のチューブがもう薄くなっていて、歯ブラシの毛先が開きかけている。そろそろ新しいのを買ってやらなければいけない。  けれどそれ以外は綺麗に整っていて、ゴミはない。やはり凪がただ几帳面なだけだと、そう思うことにした。  なにか隠されているような気がして、嵐は壁の向こう、凪がいるはずの場所へと顔を向ける。  この違和感がどこから来ているのか、嵐にはまだ、わからなかった。

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