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爆弾│拒絶と導火線②
病院に着く。後部座席の凪に声を掛けるが、反応が鈍い。目の焦点も合っていない。嵐の手にじっとりとした汗が滲む。
「おい……おい!」
声が震える。どうしようもないと悟った嵐は凪を横に抱き上げる。回した腕に力が入らず、体温も低い。嵐は駆け足で病院の窓口に向かう。自動ドアが空く。消毒液の匂いがする。受付に向かい、嵐は声を掛ける。
「意識がはっきりしない。数分前に倒れた、顔色が悪い」
低い声でそれだけを言うと、看護師が出てくる。凪の顔色と意識を確認する。凪がなにか言っている。
「……だい、じょうぶ……です」
「大丈夫ではないですね」
そう、看護師が淡々と返す。
「お待たせしました、処置室へご案内します」
「わかりました」
看護師が車椅子を持ってきて、凪に座らせる。
「……お仕事、遅れます……、検査、は……ひとりで……」
「黙れ」
声は弱々しく掠れていたが、この期に及んでまだそんなことを言うか。嵐はそう言い捨てると、凪が唾を呑む。
「大丈夫かどうかは、お前だけが決めることじゃない」
声を低くしてそう返す。凪は反射的にまた唇を動かす。なにを言っているか聞き取れなかったが、口の動きで「すみません」と言っているのだけは理解できた。膝の上でいつも握っていた拳は力なく開いていて、わずかに震えていた。
診察室に呼ばれる。車椅子を看護師に押されて、診察室に入っていく。嵐もついて行こうとして、看護師に止められる。
「お連れの方は……」
看護師が凪に問う。凪は振り向かないまま、小さく首を横に振った。拒絶された。そう理解した瞬間、わずかに呼吸が止まる。
看護師は嵐をちらと見て、頭を下げる。
「申し訳ありません、診察が終わるまで外でお待ちください」
そう言って、嵐の目の前で静かにドアが閉まる。「待て」と言おうとして、嵐は飲み込んだ。
シンとした静寂が、嵐の胸を刺す。膝から力が抜けて、嵐を動けなくする。
「……凪」
後ずさった嵐は、廊下のソファに座り込む。
時計の秒針の音が、やけに鼓膜の奥で響いていた。
家を出る前、凪に「うるさい!」と怒鳴ったことを思い出す。凪の目は一瞬、過去を見ていた。皿が割れた夜。ビールを買えなかった日。あの時と同じ目をしていた。あれは、怒鳴る相手ではなかった。
反芻してももう遅い。あの一言が、どう凪に届いたのか、嵐は知らない。
足音やドアの開閉音がするたびに、嵐は顔を上げる。
どれぐらい経っただろうか。看護師が慌ただしく出入りし、通りすがった看護師にたまらずどうしたのか聞くと、「少し検査を追加します」とだけ言われた。
やがて、処置室から凪が出てくる。
嵐は一瞬足を止める。その細い腕に刺さっているものを見て、喉の奥が引き攣った。
腕には白いテープで固定された針と、そこから伸びる透明な管が繋がっていた。
凪の表情は薄い。車椅子に乗せられた凪が看護師に押されて、移動する。いろいろ聞きたいことがあったが、先程の凪の拒絶もあり、嵐はまだ踏み込めないでいた。
「別の科に回します」
看護師が短くそう言って凪の車椅子を押す。会計かと思っていた嵐は拍子抜けして、それから拳を握り直した。凪の体調が思ったより深刻だったのか、これからどうなるのか、それが心配だった。
後ろをついて行きながら、凪を見つめる。車椅子に座っているせいか、その背中はいつもより小さく見えた。ホットミルクを飲んでいた背中。料理をしていた背中。そのどれとも重ならなくて、嵐は混乱する。廊下を歩く足音がやけに響く。
しばらく凪と看護師の後をついて歩いていると、途中でフロアの床の色と凪を引率するスタッフが変わっていた。嵐はふと顔を上げる。先程とは少し空気が違う。母親学級の掲示板、子供の予防接種の予約情報が目に入る。今までとは毛色の違うそれに、嵐は無言で辺りを見渡す。
「産婦人科」
頭上に見えたプレートに、足が止まりそうになった。こめかみがぴく、と引き攣る。
そんなはずがない。
――なぜ、今まで。
凪だけが診察室に入っていく。嵐は同じく、外で待つように言われた。嵐は「ああ」と言ったが、頷けているかどうかまではわからなかった。
「凪」
名前を呼んだ。やはり、凪は振り向かない。
やがて診察室のドアが閉まる。
ここでなにもできない無力感に、待合室のソファに座った嵐はただ俯いていた。スマホに新着の通知が来ていたが、見れなかった。
今まで、なにをしていた。
自分が見落としていた体調のサインはなかったか。食事量、顔色。それらを嵐は思い出す。強く言わなかったのは、少食だと最初から思っていたからだ。だがそれが、食べないのではなく、食べられなかったのだとしたら?
なぜもっと早く病院に連れていかなかった。発情期が来ていないことをもっと追求しなかった。拳を握り、歯軋りする。体のどこかに力を入れていないと、落ち着かない。
産婦人科のプレートが、頭の中に蘇る。
そもそもなぜ産婦人科に回されている。周期の乱れか。薬の副作用か。ホルモンバランスか。
……まさか。
診察室からは金属トレイのこすれる音や、医者や看護師のなにか言う声が中から微かに聞こえる。どこかで赤ん坊が泣いている。
心臓が速くなる。手は汗ばんでいて、呼吸が浅い。
凪の発情期を想像した時、すぐに切り捨てた、説明のつく状況が一つある。
周期が止まり、匂いも出ない。体調の変化が先に出るはずの、それ。
ㅤ発情期が来なくてもいい体に、既になっていたとしたら。
その時の嵐は、すぐに首を振っていた。そんな様子を、今まで一度も見たことがなかったからだ。食事も家事も、普段通りだった。
ありえない。
そう、その時は思った。けれど否定し切れる決め手に欠ける。
もしそうなら、どうする。
思考が、そこで止まる。どうする、とはなにに対してだ。なにを前提にしている。
そう思考を頭の中で転がして、嵐は奥歯を噛み締める。すぐに、考えるな。まだ決まったわけじゃないと落ち着こうとする自分がいる。
嵐は一度だけ深く息を吐いた。だが落ち着かない。指先がじわじわと痺れていく。
「……くそっ」
視線を落とす。自分の手が、わずかに震えていることに気付く。思い出すのは、公園で出会った、あの夜の光景だった。上着一つないセーターだけで、その日食べる食事にも困っていた。
思考を押し戻すように、嵐は額に手を当てる。指先が熱い。廊下の奥で、ストレッチャーが通る音がした。金属の軋む音がやけに大きく響く。
嵐は立ち上がる。どうしても座っていられなかった。落ち着かないまま、数歩だけ歩いて、すぐに止まる。どこにも行く場所がないことに気付くが、座っていたくもなかった。
そのうちに、凪がいるはずの診察室の扉を見る。閉じられたままで、開く気配はない。思い浮かぶのは、なぜ言わなかった、という考えだけだ。問いが遅れて浮かぶ。だが同時に、別の考えが被さる。
そもそも、言える状況だったのか。嵐は息を呑む。
「お金、払えません」
「足りませんか」
あの時の、あの言い方。嵐は一度、目を閉じた。
知らなかった、で済ませる気か。自分に対する苛立ちが、静かに内側で膨らむ。
気付けたはずだった。いくらでも違和感はあった。それを全部、見ないことにしたのは自分だ。
ぎし、と奥歯が鳴る。
その時、診察室の扉が開く。反射で顔を上げると、白衣の医師が出てくる。嵐を一瞥して、それから視線を少し落とす。凪は、と言おうとして、唇が動かなかった。
「……お連れの方ですか」
一瞬の沈黙ののち、嵐は遅れて答える。
「……ああ」
医師は頷く。
「少し、お話よろしいですか」
その一言で、喉が詰まる。
なにを言われるのか。わかっているはずなのに、理解したくない。
嵐はゆっくりと頷き、立ち上がった。
足が、わずかに重い。
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