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爆弾│歪み始めた天秤
帰宅して電気を付けると、家の中がやけに広く感じた。病院の廊下よりも静まり返っている部屋の中、嵐はテレビを付ける。バラエティ番組で芸能人が笑っている。
その音を背中に、嵐はキッチンに立つ。凪が倒れる直前まで手がけていた食事を静かに片付ける。凪が来てから調味料やキッチン用具が少しだけ増えた。けれどそれすらも行儀良く並んでいて、散らからないよう最小限にまとまっている。効率がいいと言えば聞こえがいいが、その収まりの良さは逆に窮屈に感じた。
凪のマグカップや溜まっていた食器を洗う。水を出して、嵐はその冷たさに思わず手を引いた。シングルレバーの混合水栓が、右に傾いている。左に傾け、少しお湯を出しながら嵐は皿を洗う。
洗い終わる頃、レバーがなぜ傾いていたのか、その理由に気付いた嵐は、伏せたばかりの凪のマグカップから手が離せなかった。
なにをしなければいけないか、病院の中で考えていたことを改めて整理する。凪には保険証がない。住民票、出生金、住む場所、行政手続き。やるべきことを頭の中で並べ、問題をタスクに分解していく。考えながら、嵐は風呂に入る。熱い湯を湯船に張り、珍しく長めに浸かる。
なぜ、気付かなかった。あいつはあの状態で、うちにいたのか。
ㅤ見えていたはずだろう。
衝動的に、湯船に頭を沈める。数秒、呼吸ができなくなる。熱いお湯の中、嵐は息を吐く。胸のあたりが重くなる。頭が、怒りで満たされる。凪にではない。むしろ、凪に怒る理由がないことが余計に嵐を苛立たせる。誰に向けていいかわからない怒り。誰かが凪をそうなるまで追い詰めたはずなのに、その相手がここにいない。少なくとも、まともな大人は周りに一人もいなかった。でなければ、なぜ凪はあんなに大きなものを全部自分で抱えようとする。
――まだ、ほんの十八なのに。
漠然とした怒りを抱きながら、嵐はようやく湯船の中から顔を上げた。濡れた髪に指を通してかき上げ、そのまま強く握る。頭皮が引っ張られる鈍い痛みに、呼吸が荒くなる。
父親は誰か、という問いが一瞬浮かぶ。
だが嵐はそのまま考えを切り捨てた。今ここにいない人間に、意味はない。関係するのは、これからだけだ。
十八歳のあいつに、なにができる。
頭の中で数字が回る。出産、入院。その後の生活費。〇〇費とつくありとあらゆる項目を頭の中で並べる。子供の分だけでは足りない。それを、嵐は静かに頭の中で積み上げる。安くはないが、払えない額でもない。
ㅤけれどあいつにとっては、何回分だ。
もし、自分がいなければどうなる。同じ計算をなぞる。さらに条件は悪くなる。きっと途中で破綻する。そしてその先を、嵐は想像しかける。金がない。体ももたない。それなら、行き着く場所はわかっている。
あの路地、あの薄暗い通りで、またへらへら笑って、その体を売るのか。
……あんな、端金で。
コンビニの前で話しかけて来た時の声を思い出しそうになって、嵐はそこで思考を止めた。
舌打ちを押し殺す代わりに、強く歯を食い縛る。もはや、考えるまでもない。あいつがあそこに戻る前に、止める。
嵐は一度、目を閉じる。数秒だけ間を置いて、嵐は結論を出す。
自分が、全部まとめて管理すればいい。それが一番効率がいい。
そう結論を出して、嵐は静かに受け止める。
けれどその結論は、どこか歪んでいた。
風呂から出ても、嵐の熱は冷めなかった。冷蔵庫にあったペットボトルの水を乱暴に手に取り、冷たい水を無理やり胃に流し込む。焼け石に水という言葉が頭に浮かんだ。
濡れた髪もそこそこに、適当に着替えた嵐はソファに腰を下ろす。いつも凪が寝ていたソファだった。嵐は再び苛立ちを覚える。なんで最初から、部屋を使わせなかった。最初こそ凪にソファを倒して寝る方法を教えはしたが、あれから凪がそうやって使っているのを見たことがなかった。凪がそうするならそれでいいと、本気で思っていた。
居ても立ってもいられなくなった嵐は客用の布団がクローゼットにあるのを思い出し、圧縮させていた布団を取り出して自分の寝室に運んだ。自然と体がそう動いていた。
ベッドで眠る気もなかった嵐はソファに戻り、テレビを切ってそのまま寝そべる。……狭い。
少し体を捩って寝方を調整しようと思ったが、徒労に終わった。背中は硬いし、寝返りを打てば落ちそうになる。あれこれ体を動かしたその時、ソファの隅、足元で小さく畳まれていた毛布がぱさ、と落ちた。拾い上げた瞬間、ここで眠っていた凪の姿が脳裏に浮かぶ。端の方で背中を丸めて、息を殺すようにしてあいつはただここで眠っていた。毛布を掛けてやった時、睫毛が震えていた。髪を払うために頬に触れようとして、結局なにもしなかった。
ソファで横になってから、考えるのは凪のことばかりだ。けれど一瞬、あの華やかな婚約者の面差しがよぎった。
結婚、会社、将来。いろんなことが瞬時に頭を巡る。どれも現実的な問題だ。優先順位を落とすなら、どうする。
ㅤ嵐は自分の未来と、凪のこれからを静かに交差させる。
現実的には、関わらない方が楽な道もある。けれどその思考は長くは続かなかった。凪を一人にしたら、あいつはまた抱え込む。言わないで、我慢する。赤ん坊がいればなおさらだ。倒れたらどうする。……誰が、見つける? また、あの朝みたいに倒れていたら?
それは、見捨てたのと同じだ。
「……っ」
凪が倒れた時の顔、診察室のエコーと、心拍音。それを思い出すと、もはや離れる前提で考えられなくなる。計算していくほどに、結論が固まって行く。
どっちが楽かなど、そういう話ではない。
嵐にとって、それはもう選択ではなかった。
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