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爆弾│帰る場所
朝、嵐が凪を迎えに行った時、病室の凪は驚いた顔で現れた嵐を見ていた。けれどすぐに俯いて視線を逸らす。
「……お世話に、なりました」
「なにを言っている」
嵐は間を置かずに返した。低い声だった。
凪は一瞬だけ肩を揺らし、それ以上なにも言えなくなる。嵐はそれを一瞥してから、凪の前に立つ。
「退院の説明は受けたか」
「……はい」
「薬は」
「あります」
凪は小さな袋を見せる。嵐はそれを受け取り、中身と、服用回数、時間、注意書きを確認する。問題ないと判断した嵐は、袋を返す。
「帰るぞ」
嵐は背を向けて、振り切るようにそう言った。凪が息を飲む。
「……おれも、ですか」
ㅤ歩き出そうとした嵐は足を止め、振り返る。
「他に誰がいる」
ㅤ凪は目を伏せた。
退院準備を済ませ、会計に向かう。費用を告げられる。十数万の額が表示される。凪は保険証を持っていなかった。自己負担だから上振れる。
ㅤ凪はこれを、一人で背負うつもりだったのか。嵐は凪が差し出してきた、薄い封筒を思い出していた。あの時金が必要だったのはこれかと、頭の中で点が繋がる。
ㅤただ、気付けなかった自分への腹立たしさの方が強かった。
「お支払いは、一括でよろしいですか。分割も可能ですが……」
表示された金額を見て、凪が息を吸う音が聞こえた。
「あ、あの、分割って」
凪はそう言うが、嵐は凪の体の前に手を出して制した。それ以上のことは言わせないまま、嵐は黙ってカードを出す。先に車に乗せて待たせておくべきだったと、後悔したが遅かった。
病院を出て、車まで誘導する。凪をシートに座らせ、シートベルトをしっかり締める。
凪はまだ目を伏せたまま、項垂れていた。嵐はエンジンをかけ、バックミラー越しに凪を見た。固まったままの姿に、なにも言えない苛立ちよりも、心配が先に立つ。
車内は静かだった。凪は後ろの座席に座ったまま視線を落としている。ハンドルを握る手が震えそうになっているのを、嵐は無意識に感じ取る。家に帰るまで、嵐は何度も凪を振り返って様子を観ていた。
「なにか、食べたいものはないか」
途中でスーパーに寄る。凪はなにも答えない。嵐が車から降りると、凪も当たり前のように降りてくる。
「お前は待っていろ」
凪が立ち止まる。置いて行かれた犬のような目で嵐を見る。そんな目で見るなと思い背中を向けるが、結局嵐は途中で振り向いた。
スマホで調べながら、食材を選んでいく。ほうれん草、きのこ、豆腐を手に取る。たまごとひじきは……家にあっただろうか。
守るなら、まず食事だ。
ㅤ逆に避けた方がいい食べ物も、調べながらカゴに入れる。そうやって嵐が次々に入れていく商品を見て、嵐のあとをついて歩く凪は小さく零す。
「……これ」
「必要だろ」
それだけで済ませて、嵐はレジに向かった。
本当は、もっと言葉があった。
だが、言えば凪の選択を奪う気がした。
「……どうして」
列に並んでるあいだ、凪が顔を上げてそう尋ねる。
「なにがだ」
見下ろすと、凪がさっと顔を下に向ける。
「どうして……おれのこと、捨てないんですか」
「……捨てて、お前はどうする」
また妙なことを言う。
「わかりません。でも、迷惑かけません」
その返答に、嵐は息をついた。
十八という年齢では、児童養護施設は凪を受け入れづらいと、調べてわかった。かといって、いくら制度や福祉があったとて、凪がそこで制度を理解して、上手く嵌れるかはわからない。
ㅤなら、嵐が面倒を見た方が、きっと安全だ。
ㅤけれど、なぜか凪はなにかに怯えている。
「ひとまず、これからは家事は俺がやる。お前は無理はするな」
凪は頷かない。目を見開いたまましばらく固まったのち、静かに目を伏せた。
一通りの買い物を終えて、車に乗る。エンジンを掛けた時、後部座席の凪がふとぽつりと零した。
「……ごめんなさい」
そしてそう、震える声で謝罪する。けれどその謝罪は体調を崩したことももちろんあったが、しかしそれ以上に、大きなものに対しての謝罪だった。
「……なんで、言わなかった」
やっとそう聞くと、凪がゆっくりと顔を上げる。
「言う必要がないと思ってました」
凪は淡々とそう言う。違う、聞きたいのはそれではない。責めたいのではなく、確認がしたいだけだ。噛み合っていないことに気付いた嵐は、眉を寄せる。
「必要?」
「おれがそうだって言ったら……それでも、おれを拾ってくれましたか」
嵐は口を噤む。わかっていたら、どうしていたか?
関わりたくないという拒否感は、はっきりと否めない。なら、たしかに言う訳がない。そう思う他なかった。
凪の様子に目をやる。肩を小さく震わせ、手はぎゅっと握ったままだった。凪はまだ、選ぶことを知らない。思えば今までずっとそうだった。
答えられないままの嵐に、凪の口からさらに一つの言葉がまろび出る。
「お金……少しずつでも、いいですか」
「なにがだ」
凪は視線を落としたまま、指先を握る。
「かかった分、です」
「……」
「病院代も、食費も……その、迷惑、かけてしまうので」
言葉を選ぶたびに、声が細くなる。
「働いて、返します。お仕事……どうにか、見つけます。だから、いくらになるのか、教えてください……」
ㅤ凪の声が震えている。本当の金額を言えば、凪がどうなるかぐらい簡単に予想がついた。嵐はかぶりを振る。
「……そういう話じゃない」
思ったよりも低い声が出た。
「……え」
凪がわずかに顔を上げる。言いながら、自分でもうまく言葉にできていないことに気付く。
「方法の問題じゃない」
そう静かに言うと、凪は完全に小さくなる。どうしたものかと、後部座席にちらと視線をやる。
「すみません……ごめんなさい……」
凪が泣きそうになっている。違う。こんなことが言いたいわけじゃない。
「……迷惑かけてしまって、ごめんなさい」
「謝るな」
思わず鋭くなる目を凪に向けそうになって、ぎりぎりで踏みとどまる。そして言う。
「凪。ずっと謝り続けるなら、怒るぞ」
言ったあとで、自分でも言葉の不格好さに気付く。違う、脅したいわけじゃない。
凪はただ、沈黙を守るだけだった。俯いたまま、なにも返さない。その沈黙に、嵐はわずかに歯噛みする。
伝わっていない。
怒られるから謝る。だから怒られないように、先に謝る。凪の中で起きているのは、それだけだ。
嵐はハンドルを握る手に力を込める。自分の言葉が、どこにも届いていないことを理解する。
謝ってほしいわけじゃない。金の話をしたいわけでもない。
じゃあ、なにを。
そこまで考えて、嵐は言葉を失う。自分がなにを求めているのか、うまく形にならない。ただ、凪がそのまま離れていくような感覚だけが、はっきりとあった。
それを止めたいのに、どう言えばいいのかわからない。
バックミラー越しに見える凪は、小さく丸まったまま動かない。そこにいるのに、距離だけが遠い。どうやったら、噛み合う。
嵐は一度だけ目を閉じ、息を吐いた。凪がびくりと肩を揺らす。
「……」
凪はしばらくのあいだ、俯いたままだった。
家に帰る頃には、凪は少し落ち着いていた。エンジンを切ると、静けさが戻る。凪はすぐには降りなかった。車のドアに手をかけたまま、動きが止まっている。
「どうした」
嵐が言うと、凪は一度だけ瞬きをして、それからドアを開けた。
エレベーターを上がり、玄関に入る。家の中の空気は少しだけ違っていた。凪は靴を揃え、いつもの位置に置く。視線が床から上がらない。嵐はそのまま中に入り、昨日整えたリビングを一瞥する。
振り返ると、凪が立ち尽くしていた。
「入れ」
短く言うと、凪は小さく頷いた。
食材を一通り冷蔵庫にしまいながら、夕食の支度をする。凪はキッチンから少し離れたところに立って、嵐が料理するのを黙って見ていた。
「座れ。……床じゃない、ソファにだ」
凪に気付いた嵐がそう言うと、ようやく凪はソファの端に腰を下ろした。けれどそのまま大人しくテレビでも見ていればいいのに、なにがそんなに面白いのか、凪は嵐のことをじっと見ていた。
ほうれん草ときのこ、豆腐の入った味噌汁、やわらかく炊いた雑穀米、少し形の崩れた、豆腐のハンバーグ。副菜は小松菜のおひたしにした。凪は相変わらず少ししか食べなかったが、嵐はサランラップを掛けて冷蔵庫にしまい、「残りは腹が減ったら食え」とだけ言って、扉を閉めた。
寝る時になって、嵐は自分の寝室に凪を入れた。ドアを開けて凪に入るよう促した時、凪は一瞬身を硬くした。けれどそこに一組の布団が敷いてあることに気付いて、不思議そうな顔で嵐へと振り返る。
「しばらくお前はここの布団で寝ろ」
「でも……」
「なにかあったらすぐ分かるようにだ。ソファで寝るのは危ない」
それ以上の説明は言わない。案の定、凪は首を振る。
「こんなこと、しなくていいです。おれ、ソファでいいです」
嵐は返す。
「うるさい。……俺が、そうしたいだけだ」
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