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爆弾│火花と奉仕

 翌朝、起き出した嵐は凪がキッチンに立っているのを見て嵐はぞっとした。  昨日入院していたことを忘れたのか、顔色が悪いままキッチンに立っている。嵐は思わず二度見した。嵐はリビングに出るや否や凪のキッチンに立ち、コンロの火を静かに止める。 「座れ」  声が低いのは寝起きのせいだけではない。 「医者の話を聞いていなかったのか」  凪は反射的に「すみません」と返して唇を噛む。けれど嵐は許さなかった。凪の癖は、もうわかりきっていた。だから嵐は役割を奪う。 「しばらく家事は俺がやると言っただろう」  振り向いて凪にそう言う。凪は相変わらず俯いていた。 「でも……嵐さんの、お弁当……」  か細い声だった。言い訳というより、縋るような響きだった。 「いらん」  嵐は即座に切った。 「俺の食事ぐらい自分でどうにでもなる。お前が気にすることじゃない」  凪の肩が小さく揺れる。言葉を失ったまま、指先だけがぎゅっと服の端を掴んでいた。 「……座れ」  もう一度、低く言う。  凪はゆっくりと動いた。足取りは軽くない。ソファまで辿り着いて、端に腰を下ろす。そのまま背中を丸め、膝の上で手を重ねた。  嵐はそれを確認してから、火を止めたままの鍋に視線を落とす。中途半端に切られた野菜。途中で手が止まった形跡。包丁の位置も、まな板の上も、どこか落ち着かない。  ……無理をしている。  わかっていたことだ。だから止めた。だがそれでも、凪はやろうとする。  嵐は一度だけ息を吐いて、冷蔵庫を開ける。昨日買ってきた食材を取り出し、淡々と準備を始めた。そのあいだ、背中に視線を感じたが、嵐は振り返らない。  包丁の音だけが、静かにキッチンに響く。 「……あの」  背後から、小さく声がする。 「なんだ」 「……なにか、やること、ありませんか」  嵐の手が一瞬だけ止まる。やはりそう来るか、と思った。  役割がない状態に、耐えられない。嵐はまな板の上の野菜を見下ろしたまま、短く答える。 「ない」  間を置かずに言い切る。凪はそれ以上言わなかった。だが気配は消えないま視線だけが、ずっと背中にある。  嵐は数秒だけ考えてから、包丁を置いた。 「……なら、お前に仕事をやる」  振り返る。凪がびくりと顔を上げる。 「そこに座ってろ」 「……はい」 「ちゃんと座って、なにもしない。それが今の役割だ」  凪の目が、わずかに揺れる。理解しきれていない顔だった。それでも、ゆっくりと頷く。 「……はい」  嵐はそれを見てから、再びキッチンに戻る。  今度は、さっきよりも少しだけ意識して音を立てた。  ここにいる、とわかるように。  凪の呼吸が背後で少しずつ落ち着いていくのを感じながら、嵐は手を動かし続けた。  その日仕事を終えて家に帰ると、凪が夕食の用意をしていた。掃除も洗濯も完璧にしてある家を見て、嵐は愕然とした。朝のやり取りはなんだったのか。また頭を抱えて、嵐は犯人を睨む。 「……なんだ、これは」 「これぐらい、できます」  凪は顔を顰める。はあ、とため息を吐く。しなくていいと言っているのに、なぜするのか。 ㅤそのあとは競うように食器を下げ、奪い合うように皿を洗った。  また次の日。今度は食べ終えたあとの食器を片付けていると、リビングに凪がいないことに気付いた。まさかと思い脱衣所に行くと、凪が洗濯機から取り出したばかりの洗濯物をよたよたと運んでいるところだった。 「なにをやっている」 「……できます」  できるかどうかじゃないだろう。そう言いかけて、飲み込む。  凪は怒鳴られると身を固くする。それを知っていた嵐は、言葉の代わりにため息をつく。そして代わりに無言で奪い取り、洗濯物を干す。  ふと、視線を感じた。振り向くと、凪がバスルームの外で嵐を見ていた。なにかを探す目をしている。怒りか、失望か、見捨てる兆しか。  違う。  ただ、どうすれば役に立てるかを探している目だった。  嵐は目を逸らした。  洗濯物を干してから戻ると、凪が外で待っていた。なにか言いたげな目に、その手には乗らないと心の中で呟いた嵐に凪は言葉を投げる。 「おれを、使いますか」  突如、そう聞かれて嵐は困惑した。 「……は?」 「避妊、しなくて済みます」 「――お前、」  沈黙。急速に胸の底が冷えていく感覚がして、嵐は一度目を閉じる。頬が引き攣りそうになる。次いでようやく目を開け、凪を見る。凪の目が一瞬揺らぐ。だが彼は引かない。 「……それは、お前が自分をどう扱ってきたかの話であって、俺の話じゃない」  嵐の声が一段と低くなる。 「すみません、でもおれ……」 「まさか、お前は俺をそういう男だと思っているのか。……俺を、侮辱しているのか?」 「い、いえ」  それきり凪は沈黙する。数度、嵐は深呼吸する。 「いいか。ここでは俺が決める。お前は休む。それが今のルールだ」  凪は胸元に手を当て、決まりが悪そうに服の布地を触っていた。唇を噛んでいる凪に、嵐は少しだけ声を柔らげて言う。 「――夏休みって、知ってるか」  そう言うと凪は顔を上げて、そしてすぐに視線を逸らして逡巡する。 「えっと……学校、あんまり行ったことなくて」 「……」 「……すみません」  凪が小さく頭を下げる。そういう話がしたかったわけではなかったが、嵐は改めて話を戻す。 「とにかく。暑くて勉学どころじゃないから夏休みがある。冬休みがある。お前はその状態だ」 「……はい」  わかっているのかどうかわからないが、ひとまず凪は頷いた。 「あと、お前は――」  少しは、甘えろ。  そう言おうとして、結局嵐は最後まで言わなかった。  それからしばらくして、折衷案ができた。 「立ってやる家事は禁止。座ってできるものだけ」  凪は不服そうだったが、それでも役割がゼロになったわけじゃない。洗濯物を畳む、野菜の皮むきなどの下ごしらえをやらせる、米を研ぐ、裁縫を任せる。  完全には奪わない。  凪の尊厳を、残す形にする。

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