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爆弾│しゅわしゅわと溶ける遠慮
嵐は病院の予約を入れ、役所にも足を運んだ。身分証のない凪の手続きは、すぐにその場で終わるものではなかった。
凪が持っていたのは自分の名前と、親の名前だけだった。
窓口で「配偶者ですか」と聞かれ、一瞬だけ言葉が詰まる。
――違う。
だが、そう言うしかなかった。
書類の記入例を見ながら、嵐は父親欄の空白に一度だけ視線を落とす。そのまま何も言わずに書類を返し、役所を出た。
「――そういえば、相手は分かっているのか。……親に連絡は取れるのか」
役所に一緒に行った帰り、出生届の父親の欄を思い出した嵐は、なにげなくそう聞いていた。凪は視線を落とし、呼吸が浅くなる。少し遠くを見るようにして、数秒黙り込む。
「……父は、知っています」
ようやくそれだけを言って、それきり凪は口を結んで押し黙る。それ以上は、続かない。言葉を足そうとして、やめたような沈黙が続く。
ㅤ嵐は一度だけ凪を見た。
妙だな、と思う。知っているにしては、反応がない。連絡も、干渉も、迎えもない。普通なら、なにかしら動きがあるはずだ。
だがそれをそのまま口にするほど、嵐は不用意ではなかった。
「そうか」
短く頷く。凪はそれに答えない。ただ、肩の力を抜いた。安堵なのか、諦めなのかは分からなかった。
嵐は視線を前に戻す。
出産の時は連絡するべきかもしれない。だが、凪が嫌がるなら無理にはしない。その程度の距離でいい。そう判断して、嵐はそれ以上踏み込まなかった。
ただ一つ。「頼れる相手がいる」という前提だけは、頭の隅に置いたままにした。
違和感ごと、棚に上げるように。
戸籍の確認ができた時、嵐はようやく凪の誕生日を知ることができた。
それから、家にはまた新しいルールができた。
「いいか、風呂に浸かるのは十分までだ」
ソファに座る凪の前で仁王立ちになり、嵐はそう言う。
凪は嵐を見上げながら、ぽつりと言う。
「……お風呂、浸かっていいんですか」
「入るなと言った覚えはないが」
凪のその言葉に、嵐は一瞬肩透かしを食らう。すぐに違和感を覚え、嵐は先程の凪の言葉を思い出していた。凪を見つめ、眉を寄せる。
「お前、いつもシャワーだけなのか」
「はい。……その方が、早いので」
そう、曖昧にしか言わない。凪は嵐のことを不思議そうな目で見る。それのなにがいけないのか、という困惑したような目だった。
嵐の頭の中に、もう一つ情報が繋がる。
食事の遠慮、ソファで寝ようとする、金の話ばかりする、湯船を使わない。全部同じ構造だと嵐は気付く。この家のものを使っていいと、凪は思っていない。どうすれば凪に伝わるのか、思い詰めて嵐は言う。
「風呂は設備だ。使うためにある」
「……わかりました」
本当にわかっているのか、嵐は半信半疑だった。けれど最近、凪が風呂から出るまでの時間が少し伸びたような気がした。
それと同時に、最近、嵐はある物を買った。
ㅤ薬局に寄って詰め替え用のボディソープを買い足した時、隣の入浴剤コーナーで「温浴効果」「疲労回復」という文言が目に入った。貧血気味なら、体を温めた方がいいだろう。
ㅤそんなことを思っていたら、パッケージを手に取っていた。香りや色はあまり気にしなかった。家に帰った嵐は、それをバスルーム前の棚に置いた。
「……あの、これ、使っていいんですか?」
その日、凪が風呂に入るタイミングで、服を脱いだ凪がバスルームからタオルで前を隠しながら出てきた。そして指で個包装のパッケージをつまんで、それを嵐に見せる。
「風呂に入れるものだろう」
それだけを答えると、凪はまたおずおずとバスルームに引っ込んで行った。
やがて再び扉が開く。湯気と一緒に、凪が出てくる。髪は濡れたままで、首筋に水滴が落ちている。頬が熱で染まっているのか、恥じらいなのか判別がつかない。
視線が、そこで止まる。
「――あの、ありがとうございます」
「ああ。……そうか」
凪の声が、聞こえていなかった。認識した瞬間、嵐の返しがずれる。なんだ今のは、と自分でも思いながら視線を外す。
「ちゃんと拭け。冷える」
それだけを言って、嵐は遮るように凪の髪をわしゃわしゃとバスタオルで拭く。凪はされるがまま、タオルの隙間から嵐を見ていた。
そのあと風呂に入った嵐は、色が変わったお湯を見た。凪がちゃんと使ったのかと思うと、自然と頬が緩んだ。
そして嵐もゆっくり湯船に入る。浸かりながら、確かに血行がよくなっていく気がした。
凪は入浴剤を、毎日は使わなかった。どうせもったいなくて贅沢だと思っているのだろう。こんなもの、毎日使えばいいのに。
そんなことを思いながら、嵐は新しく追加で買ってきた箱を横に置いた。
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