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爆弾│しゅわしゅわと溶ける遠慮

 嵐は病院の予約を入れ、役所にも足を運んだ。身分証のない凪の手続きは、すぐにその場で終わるものではなかった。  凪が持っていたのは自分の名前と、親の名前だけだった。  窓口で「配偶者ですか」と聞かれ、一瞬だけ言葉が詰まる。  ――違う。  だが、そうだとも言いきれなかった。 「――そういえば、相手は分かっているのか。……親に連絡は取れるのか」  役所に一緒に行った帰り、出生届の父親の欄を思い出した嵐は、なにげなくそう聞いていた。凪は少し遠くを見るようにして、数秒黙り込む。 「……父は、知っています」  ようやくそれだけを言って、それきり凪は口を結んで押し黙る。それ以上は続かなかった。言葉を足そうとして、やめたような沈黙が続く。 ㅤ嵐は一度だけ凪を見た。  妙だな、と思う。 ㅤ普通なら、もう少し反応があっていい。  だがそれをそのまま口にするほど、嵐は不用意ではなかった。 「そうか」  短く頷く。凪はそれに答えない。ただ、肩の力を抜いた。安堵なのか、諦めなのかは分からなかった。  嵐は視線を前に戻す。  出産の時は連絡するべきかもしれない。だが、凪が嫌がるなら無理にはしない。その程度の距離でいい。そう判断して、嵐はそれ以上踏み込まなかった。  それから、家にはまた新しいルールができた。 「いいか、妊娠中は風呂に浸かるのは十分までだ」  ソファに座る凪の前で仁王立ちになり、嵐はそう言う。  凪は嵐を見上げながら、ぽつりと言う。 「……お風呂、浸かっていいんですか」 「入るなと言った覚えはないが」  凪のその言葉に、嵐は一瞬肩透かしを食らう。すぐに違和感を覚え、嵐は先程の凪の言葉を思い出していた。凪を見つめ、眉を寄せる。 「お前、いつもシャワーだけなのか」 「はい」 「……なんでだ。いつも湯を張っていただろう」 「その方が早いので」  そう、曖昧にしか言わない。凪は嵐のことを不思議そうな目で見る。それのなにがいけないのか、という困惑したような目だった。やはり凪はこの家のものを使っていいと思っていない。どうすれば凪に伝わるのか、思い詰めて嵐は言う。 「風呂は設備だ。使うためにある」 「……わかりました」  本当にわかっているのか、嵐は半信半疑だった。 ㅤというのも、家事折衷案を出してからというもの、凪はいつも風呂に入ったあとで軽く掃除をするのだ。嵐が風呂に入った時、水垢が消えてあちこちがぴかぴかになっているのに気付いた時は肝が冷えた。  けれどそれからと言うもの、凪が風呂から出てきた時に頬や耳が少し赤く染まっているのを見て、嵐は、ちゃんと浸かったのか、と安心した。  そして最近、嵐はある物を買った。 ㅤ薬局に寄って詰め替え用のボディソープをカゴに入れた時、隣の入浴剤コーナーで「温浴効果」「疲労回復」という文言が目に入った。 ㅤそんなことを思っていたら、パッケージを手に取っていた。香りや色はあまり気にしなかった。家に帰った嵐は、それをバスルーム前の棚に置いた。 「……あの、これ、使っていいんですか?」  その日、凪が風呂に入るタイミングで、服を脱いだ凪がバスルームからタオルで前を隠しながら出てきた。個包装のパッケージを手に持っている。 「風呂に入れるものだろう」  それだけ答えると、凪はまたおずおずとバスルームに引っ込んで行った。  やがて再び扉が開く。湯気と一緒に、凪が出てくる。髪は濡れたままで、首筋に水滴が落ちている。頬がほんのりと赤い。  視線が、そこで止まる。 「――あの、ありがとうございます」 「ああ。……そうか」  凪の声が、聞こえていなかった。認識した瞬間、嵐の返しがずれる。なんだ今のは、と自分でも思いながら視線を外す。 「ちゃんと拭け。冷える」  それだけを言って、嵐は遮るように凪の髪をわしゃわしゃとバスタオルで拭く。凪はされるがまま、タオルの隙間から嵐を見ていた。  そのあと風呂に入った嵐は、色が変わったお湯を見た。  そして嵐もゆっくり湯船に入る。浸かりながら、確かに血行がよくなっていく気がした。  ある時、凪が向かったはずのバスルームから気配がしないことに気が付いた。嵐が様子を見に行った時、扉がわずかに開いていた。 ㅤ嵐は思わず覗き込む。 ㅤ浴槽の前で、凪がしゃがみ込んでいる。また掃除でもと思ったが、違った。  凪は入浴剤をそっとパッケージから入浴剤を取り出し、湯船に沈める。ぽちゃんと音がして、それからしゅわしゅわ泡を立てては色が広がっていく。凪はじっと見つめていた。声を掛けようとしたが、嵐はなにも言わずにバスルームの前から退散する。 ㅤそれから嵐は時折風呂の様子を気にしながらも、冷ました米をラップで包む作業に戻った。  凪は入浴剤を、毎日は使わなかった。 ㅤ嵐はなにも言わず、新しく追加で買ってきた箱を横に置いた。

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