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アクアリウム│口付けの向こう側
嵐が寝る前の歯磨きをしていると、凪がとことこやってきた。凪から近付いてくるのは珍しいと思ったのもつかの間、凪はスマホの画面を見せてくる。
「あの、これってお金かかりますか……?」
覗き込むと、勉強系のアプリみたいだった。嵐は凪の顔を見て答える。
「……いや、無料だ。広告除去費用などはかかるはずだが」
「そうですか」
凪がインストールのボタンを押した。小学校の、算数の問題アプリだった。
「勉強したいのか?」
そう尋ねると、凪は曖昧に頷いた。
「することが他にないので……」
それを聞いて、嵐は少し考えた。
「……書斎に、辞書や参考書がある。それなら読んでいい」
凪は目を瞬かせる。
「いいんですか?」
「好きに使え」
「ありがとうございます」
その夜。嵐がベッドに入ってしばらくした頃、かすかな光が視界の端に入った。
うっすらと目を開け、視線を向ける。見ると、布団の中で凪がスマホを開いていた。顔の下だけがぼんやりと照らされている。
「……おい」
低く呼ぶ。凪がびくりと肩を揺らした。
「やるなら日中にやれ。目を悪くする」
一拍遅れて、凪がスマホを胸元に引き寄せる。
「……すみません」
小さくそう言って、それきり、部屋は静かになる。
暗くなった嵐は目を閉じ、それから眠りに就いた。
リビングで、嵐はいつものようにテレビをつけていた。ニュースが流れる。特に意味もなく、それを流し見ながらソファに腰を下ろす。
凪は床に座って、洗濯物を畳んでいた。しばらくしてニュース番組が終わる。
少しして、画面が切り替わる。動物番組だった。草原を走る群れや、水中を泳ぐ魚たちが映し出される。
ふと、背後で衣擦れの音が止まった。
振り向くと、洗濯物を畳んでいた凪の手が止まっている。そして、画面をじっと見ていた。
嵐と目が合った瞬間、凪ははっとしたように視線を落とし、また何事もなかったように手を動かし始める。
嵐はなにも言わず、リモコンに伸ばしかけた手を止めた。
それからというもの、テレビはつけたままにすることが増えた。
数日は、同じような光景が続いた。
ニュースのあとに流れる番組を、そのままにしておく。嵐は特に意識していなかったが、凪は決まってその時間になると手を止めるようになった。
動物番組の日もあれば、旅番組の日もあった。
料理を作る手元や、見たことのない街並み。凪はそれらを、ただ黙って見ていた。
凪は自分から見たいと言わない。だから嵐も、なにも聞かなかった。
ある日、帰宅すると凪は床に座っていた。洗濯物は終わっていて、テレビはついていない。嵐はため息をつく。
「座るならきちんとソファに座れ。……体を冷やす」
「はい」
そう言うと、凪は大人しくソファに座る。けれどなにをするでもなく、手元をいじっている。嵐はネクタイをほどく手を止める。
「……テレビ、つけないのか」
嵐がそう言うと、凪は一瞬だけ目を見開く。
「いえ……その……」
言葉が続かない。嵐はその様子を一瞥して、リモコンを手に取った。
電源を入れる。いつものようにニュースが流れ出す。凪はなにも言わなかったが、少しだけ姿勢を正した。
その日、ニュースのあとに流れたのは映画だった。
嵐は一度、画面を見る。オメガとの番契約がどうこうとか、運命の相手がどうたらとか、そういう話らしかった。だが特に興味はない。リモコンに手をかけようとすると、凪が俯く。
少し考えて、そのままリモコンをテーブルに置いた。
画面の中で、物語が始まる。凪はそれを、じっと見ていた。嵐はキッチンで自分の夕食を用意しながら、視線だけを画面に向ける。
内容は頭に入ってこない。ただ画面を見つめている凪の気配が、いつもより静かだった。
夕食を簡単に済ませ、嵐が手洗いに行って戻ってきた時、映画は中盤に差し掛かっていた。
場面が切り替わる。夜の室内に照明が落ちて、音楽がやけに静かになる。
スリッパを履いた嵐の足が止まる。そういう流れか、と理解する。映画にはありがちな展開で、特に珍しいものでもない。
だが、この状況で流すものでもない気がした。
リモコンは手の届く位置にあって、消すこともできた。
嵐は一瞬だけ考えて、そのままソファに腰を下ろした。
横には凪がいる。目を逸らすでもなく、動かずにただ画面を見ている。
ベッドの上で、二人が言葉を交わす。触れ方が妙にゆっくりで、無駄が多い。
嵐はわずかに眉を寄せる。非効率、という言葉が頭に浮かぶ。
だが、隣の凪の呼吸が少しだけ浅くなったのを感じた。ふと視線をやると、凪は、画面を見たままだった。その目は、驚きも、羞恥もない。ただ、じっと見ている。
やがて、キスの場面になる。時間をかけて、確かめるようなそれ。
凪の指先が、わずかに動いた。膝の上で布を掴み、すぐに力を抜く。
嵐はそこで視線を外した。
……居心地が悪い。
理由ははっきりしない。内容のせいか、状況のせいか。画面の音だけが、やけに浮いて聞こえる。
ふと、隣から小さく息を吐く音がした。
反射的に見ると、凪はまだ画面を見ていた。だがその表情が、ほんのわずかに緩んでいる。
嵐は目を細める。
――なんだ、その顔は。
理解はできない。だが、見慣れたものでもない。欲とも嫌悪とも違って、もっと、遠い。自分には関係のないものを見ているような目だった。
やがて場面が切り替わる。音楽が途切れ、会話が戻る。そこで嵐はようやく息を吐いた。
横を見ると、凪は視線を落としていた。なにもなかったように、膝の上で手を重ねている。
嵐はなにも言わず、リモコンに手を伸ばす。そして音量を一つだけ下げた。
それ以上は、触れなかった。
それから、夜は二人でいろいろな映画を見た。
凪は、アニメ映画も好きみたいだった。
初めは話がわかりやすいとか、音楽が好きなのかと最初は思っていた。
けれど、エンドロールが流れる頃になると、凪は決まって少しだけ肩の力を抜く。
その様子を見て、嵐は気付く。
こいつは、帰る場所がある話が好きなのだと。
その日は、各地の名スポットを紹介する旅番組が流れていた。九州の有名な温泉街を芸能人が散策して、ナレーターが解説している。連なる屋台や店での食べ物を紹介しあとで、湯気の立ち上る温泉が映る。
見ていた凪はすっと目を細めて、どこか眩しそうにする。
「あったかそうですね」
そして凪がそうぽろりと零した。なにげなく眺めていただけの嵐は、ソファの背もたれから体を起こしてふと想像する。
南の温泉街。
なぜか、そこにいる凪の姿が頭に浮かぶ。趣のある旅館に、硫黄の香り。湯気に包まれて頬や耳がほんのり赤くなっている、浴衣姿の凪。そして広縁に座って、ぼんやりと外を見ている、目。
そこまで考えて、なにを想像しているのかとかぶりを振り想像を追い出す。けれどなぜか、不思議と悪くはないと、思ってしまった。
「……いつか、行ってみるか」
そう独りごちると、凪が一瞬固まった。
嵐が目を向けると、凪の視線がわずかに揺れる。凪はテレビに視線を戻したまま、マグカップを両手で包む。耳が赤くなっているのは、飲み物の熱のせいではないように見えた。嵐は目を瞬かせる。
……照れているのか。
嵐はそう思ったが、あえて追求はしなかった。
凪が家で大人しく過ごすようになって、しばらく経った。嵐が帰ってくるまで軽く掃除をしたり、座ってできる家事をする以外は、だいたい横になったりしているみたいだった。少し退屈かと思ったが、凪はなにも言わないし、欲しがらない。わがままの一つぐらい言えばいいのに。
凪がねだってきたのは、せいぜいあの算数アプリの一件ぐらいだ。……そもそもあれは、わがままに入るのだろうか。
そう思った矢先、スマホに通知が入っていることに気が付いた。
明日香からだった。
キャラクターもののスタンプのあとに、メッセージが続いている。
『最近どうしてる? 今度、出掛けない?』
「……」
一分前の連絡。嵐は返信しようか迷う。カーソルの点滅する画面を見つめ、それからスマホをしまう。
今、最低なことを考えている。
それはとても、まともじゃない気がした。
画面を閉じても、指先にその余韻が残った。
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