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アクアリウム│口付けの向こう側

 ある日のこと。嵐が寝る前の歯磨きをしていると、凪がとことこやってきた。凪から来るのは珍しいと思ったのもつかの間、スマホの画面を見せられる。 「あの、これってお金かかりますか……?」  覗き込む。値段は特に書いていない。嵐は凪の顔を見て答える。 「……いや、無料だ。広告除去費用などはかかるはずだが」 「そうですか」  凪がインストールのボタンを押した。小学校の、算数の問題アプリだった。 「勉強したいのか?」  そう尋ねると、凪は曖昧に頷いた。 「することが他にないので……」  それを聞いて、嵐は少し考えた。 「……書斎に、辞書や参考書がある。それなら読んでいい」  凪は目を瞬かせる。 「いいんですか?」 「好きに使え」 「ありがとうございます」 ㅤ凪がぺこりと頭を下げる。「構わない」と言って、嵐は歯磨きに戻った。 ㅤまたある日。リビングで嵐はいつものようにテレビをつけていた。ニュースが流れる。それを流し見ながら、嵐はソファに腰を下ろす。凪は床に座って、洗濯物を畳んでいた。 ㅤしばらくしてニュース番組が終わり、画面が切り替わる。動物を扱う、バラエティ番組だった。草原を走る群れや、水中を泳ぐ魚たちが映し出される。 ㅤ嵐は画面を切り替えようとリモコンに手を伸ばした時、ふと、背後で衣擦れの音が止まっていることに気が付いた。  振り向くと、洗濯物を畳んでいた凪の手が止まっている。そして、画面をじっと見ていた。 ㅤ嵐と目が合った瞬間、凪ははっとしたように視線を落とし、また何事もなかったように手を動かし始める。  嵐はなにも言わず、リモコンに伸ばしかけた手を止めた。 ㅤそれから嵐は、凪が見ていると気付くたび、リモコンに伸ばしかけた手を止めるようになった。  凪は自分から見たいと言わない。だから嵐も、なにも聞かなかった。 ㅤその日も、ニュースのあとに流れた番組をそのままにしていた。 ㅤ気付けば、画面の中では恋人たちが静かに口づけを交わしていた。 ㅤふと視線をやると、凪は目を逸らさずに画面を見ていた。 ㅤ見慣れない顔だった。嵐は居心地の悪さに、そっと視線を外した。やがて場面が切り替わる。音楽が途切れ、会話が戻る。そこで嵐はようやく息を吐いた。  横を見ると、凪はなにもなかったように膝の上で手を重ねて俯いている。  嵐はなにも言わず、リモコンに手を伸ばす。そして音量を一つだけ下げた。 ㅤそれ以上は、触れなかった。 ㅤエンドロールが流れる頃になると、凪は決まって少しだけ肩の力を抜く。その様子を見て、嵐は気付く。  こいつは、帰る場所がある話が好きなのだと。  その日は、各地の名スポットを紹介する旅番組が流れていた。九州の有名な温泉街を芸能人が散策して、ナレーターが解説している。連なる屋台や店での食べ物を紹介したあとで、湯気の立ち上る温泉が映る。 ㅤ見ていた凪はすっと目を細めて、どこか眩しそうにする。 「あったかそうですね」  そして凪がそうぽろりと零した。なにげなく眺めていただけの嵐は、ソファの背もたれから体を起こしてふと想像する。  南の温泉街。  なぜか、湯気の中で頬や耳がほんのり赤くなっている浴衣姿の凪が浮かぶ。  なにを想像しているのかとかぶりを振り想像を追い出す。だが、不思議と悪くはないと、思ってしまった。 「……いつか、行ってみるか」  気付けば、そう口にしていた。凪が一瞬固まった。そしてマグカップを両手で包む。 ㅤ凪ははいともいいえとも言わないまま、ただ黒髪の隙間から見える耳だけが赤くなっていた。 ㅤその夜、スマホに通知が入る。  明日香からだった。 ㅤキャラクターもののスタンプのあとに、メッセージが続いている。 『最近どうしてる? 今度、出掛けない?』 「……」  一分前の連絡。嵐は返信しようとして、カーソルの点滅する画面を見つめたままだった。指が動かない。 ㅤそれから、静かにスマホをしまう。 ㅤ明日香の名前を見ても、先に浮かんだのは別の顔だった。  今、最低なことを考えている。 ㅤそれはとても、まともじゃない気がした。 ㅤ画面を閉じても、指先にその余韻が残った。

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