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アクアリウム│ジェリーフィッシュ
しばらく考えて、ふと、寝る前の歯磨きをしていた凪に向かって嵐は言った。
「明日、出かけるか」
「……お買い物ですか?」
口をゆすいだあとで、隣で同じく歯を磨いていた凪は軽く目を見開き、わずかに首を傾げる。歯磨き粉が唇の端についているのをタオルで拭うと、凪がびくっと肩を竦めた。
「散歩だ。気晴らしになる」
「……嵐さん」
ㅤ朝。
ㅤ自分を呼ぶ声が聞こえた。
「ん……」
ㅤ眠りの浅いまま、嵐は無意識に手を伸ばす。なにか、あたたかいものに触れる。
ぺた、と指先で確かめるように触れて、それからなぞる。
……やわらかい。
そのまま、親指と人差し指で軽く挟む。
むに。
「……」
ㅤ……少し、癖になる。
もう一度。
むに……と押して、引く。びろ、とわずかに伸びた。
「あの、いひゃい、れす」
小さな声に、嵐の手が止まる。数秒遅れて、嵐は目を開ける。凪の顔が手を伸ばした先にあったが、その頬は嵐の指に引っ張られて、わずかに横に広がっていた。
ㅤはっとしたように手を離す。
「っ、悪い」
「……いえ」
ㅤ凪が頬を抑える。嵐はしどろもどろになりながらも、ベッドから身体を起こした。
ㅤなんだ、今のは。
ㅤわけがわからないまま、嵐はリビングに出て、時計を見る。いつも出社しているのと同じぐらいの時間だった。
凪はいつもより少し早く起きていたようだった。嵐は洗面所で顔を洗い、戻ってきてから部屋を見回す。着替えてソファに座っていた凪は、すぐに姿勢を正した。
「……おはようございます」
「ああ」
短く返しながら、嵐は凪を一瞥する。
ㅤソファに座る凪の服装はいつもと変わらないが、どこか整っている。髪もいつもよりまとまっている気がした。無意識に気を遣っているのかと思ったが、嵐はなにも言わなかった。
「飯は軽くでいい」
「はい」
用意したのは簡単なものだったが、凪はいつもより少しだけ口にした。嵐はそれを確認してから席を立つ。
凪がいつもみたいに後部座席に座ろうとしているのを見て、嵐は眉をひそめた。
「前に乗れ。……その方が運転に集中できる」
そう言うと、凪はおずおずと助手席に座る。
「それ、キツくないか」
「大丈夫です」
凪のシートベルトを確認して、嵐もまた運転席に乗り込んだ。……膝が寒そうだ。ブランケットを買うべきか。嵐は少し考えながら、車を走らせる。
赤信号で止まった時、嵐は横を見た。凪は窓の外を見ている。流れていく景色を、ひとつひとつ確かめるように。
「あの、散歩って、どこへ」
道のりの半分ほどまで来た時、凪は嵐に尋ねる。そういえば行先を告げていなかったかと思い、嵐は答える。
「水族館だ」
「……魚、ですか?」
凪は不思議そうに目を瞬かせた。
凪が動物番組が好きでよく見ていたことを、嵐は思い出す。動物園も候補としてはあったが、屋外はまだ肌寒いし、天候にも左右される。静かに見て回れるものなら美術館もいいかと思ったが、凪が楽しめるかはわからなかった。
水族館に入る。入り口に入った時、凪は少し困惑していた。
「……暗いですね」
「足元気を付けろ」
「はい」
少し大きくなった腹を庇いながら歩く凪の横で、嵐は自然と歩幅を合わせて歩いた。
ゆらゆらとクラゲの浮かんでいる水槽に、凪が顔を近付ける。ぼんやりとした光に、凪の輪郭が柔らかく照らされている。頬のラインが以前より少しふっくらしてきている気がした。とはいえ、もともと痩せぎすだった凪にとっては標準へ近付いたというだけの話で、もっと食べさせなければいけないことには変わりない。
水の中をゆっくり漂っているだけのクラゲを、凪はじっと見つめている。半透明の体の中に、四つの輪のようなものが浮かんでいる。不規則に拍動しては水の流れに身を任せ、ふわふわと漂っている。
「……クラゲも、考えごとをするんでしょうか」
なにか面白いことでもあるのかと気になった嵐が同じように水槽を覗き込むと、凪は雫が落ちるような声でそう言った。
「どうだろうな」
嵐がそう返すと、凪はしばらく考えて言う。
「考えることも、悩むこともないなら……」
ㅤ凪が少し間を開ける。嵐が「言え」と言うと、凪は再び唇を開く。
「……少し、羨ましいです」
「……そうか」
ㅤ嵐はそう返したが、その意味までは測りかねていた。
そして凪は静かに顔を離した。
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