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アクアリウム│I like……

 夜、帰宅した嵐は、ダイニングテーブルで問題集と向き合う凪の姿を見つける。だが、しばらく見ていても進んでいない。 ㅤ気になった嵐が凪のノートに視線を移すと、凪は咄嗟に手で隠そうとした。 「見せろ。別に怒りはしない」 「すみません……全然できなくて……」 「いい。見ないと教えられない」  凪はおずおずと手をどかす。嵐はノート読む。左右のバランスが崩れた、形の悪いアルファベットが並んでいる。ふと嵐は目を細め、教科書と見比べる。  ――そのまま書き写している。 「……そういうことか」  嵐は隣に座り、ペンを手に取った。 「ここは、こう考えるんだ。英語は単語を全部訳そうとすると止まる。まず主語と動詞を探す」  ノートの文章を指す。 「この文なら、Iが主語、likeが動詞だ。つまり私は好きだ。ここまでが骨だ」  それから残りを見る。 「じゃあなにを、に当たる部分を探す。dogs。犬。だから私は犬が好きだ。……この問題だと、playing soccer after school.がなにを、の部分に当たる。英語はまず骨を作る。それから肉を足す」 「骨……肉……」  凪が小さくそう繰り返す。嵐は続ける。 「全部訳そうとするな。主語と動詞を先に見つけろ。そうすると止まらない」  淡々と解説する。凪がノートに「骨 肉」と書き取る。それから申し訳なさそうに深く頭を下げる。それから、凪はふと思い出したようにペンを持ち直す。 「あの、嵐さん、これは」 「なんだ」  嵐が見ている前で、凪がノートになにか書く。  I like arashis.  嵐は動きを止める。 「……すみません」 「まだなにも言ってない。……考え方はあっている。それでいい」  凪は首を傾げる。 「変じゃないですか?」 「だいぶ変だ」 「えっ」 「このsは複数形だ」 「はい」 「嵐は一人だ。俺は増えない。だからsはつかない」 「……はい」  凪がsの部分を消しゴムで消す。嵐は再度、凪のノートを指さす。 「それから、人名や固有名詞は先頭のスペルが大文字になる」 「おおもじ……」  凪はもう一度消しゴムで消す。 「あと例文にあるミス、ミセス、これの意味はわかるか? これは敬称だ。男の場合はミスターだ。Mr. 書けるか?」 「……」  凪がまた手を動かす。  I like Mt.Arashi.  嵐が再度固まる。 「……それは山だ。マウントの略称だ」 「えっ」  嵐は息をつく。その時、もしや、と思った。 「……お前、アルファベットは書けるか」  凪は一瞬固まる。だがすぐにペンを握る。 「A、B、C、D……」  凪の手が止まる。ペンの先が震えている。そこまでか。嵐は小さく息をついた。  嵐は凪の手からそっとペンを手に取り、ノートにアルファベットを書き出した。 「これはすぐ覚えられる。……歌がある」  指で差しながら、凪の前でABCの歌を歌ってやる。凪は興味深そうな目で嵐の顔を見ている。 「……歌、上手ですね」 「内容聞いてたか」 「すみません」  凪はしゅんとする。嵐は「いい」とだけ返して、凪から離れようとした。けれど凪は唇を噛み締め、やがて顔を上げて嵐に訴える。 「……こんなのもできないなら、意味がないって、思いませんか」  その声は揺れていた。ペンを握る手の指先が白い。自分がどれだけ遅れているのか、実感したのだろう。しかしそれを聞いた嵐は、間を置かずに反駁する。 「それがなんだ。わからなくて当たり前だ。わからないまま放置するのがよくない」  凪は唇を噛んで俯く。 「むしろ、今のお前は伸び代がある。……俺も赤点を取ったことがある」  そう言うと凪は弾かれたように顔を上げ、驚いた様子で嵐を見た。 「嵐さんが?」 「一度だけだ。高校の、化学だったか。だから、間違えてもいい。俺は怒らない」  そう言うと、凪はようやくふっと軽く息を吐いた。  一通り今日の勉強を終わらせ、嵐は脱衣所で歯磨きをする。凪は風呂に入っていて、バスルームからは「ABC……」と凪が小さな声で歌を口ずさんでいるのが聞こえてきた。  そんな中、嵐はさきほどの凪が書いていた英語の文を思い出す。歯を磨いていた手がふと止まる。 ㅤつい、頭の中に絵が浮かぶ。自分が増殖して、山になる。 「……ふ」  危うく泡を吹き出しそうになったが、どうにか堪えた。  凪は毎晩、机に向かった。英語ではアルファベットで止まり、数学では負の計算に首を傾げ、歴史では「いちごパンツ」と真剣に書き留めていた。嵐は呆れながらも、そのたび隣に座って教えた。  そうして、嵐がリビングでキーボードを打つ横で、ペンを走らせる音が聞こえる。 「……できました」  やがて嵐はノートを見る。問題集の解答に丸をつける。 「……ああ、合っているな」  それだけを言うと、凪は唇をぎゅっと結んだ。

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