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アクアリウム│はちみつと胎動
夜中に目が覚めると、布団で寝ているはずの凪がいなかった。嵐がリビングに出ようとすると、採光ガラスの隙間から小さな光がぼんやりと見えた。そっとドアを開けて隙間から覗くと、凪がリビングでスマホの明かりで勉強している。
リビングに出てきた嵐は電気をつける。凪は気付いてはっと顔を上げた。
「……すみません、起こしましたか」
「いや」
それだけを言うと、凪は気まずそうにする。嵐ははぁと小さくため息をついた。
「ほどほどにして寝ろ。それから電気はちゃんと付けろ、目を悪くする。……無理はするな。体も冷やすな」
ソファに掛けてあるブランケットを持ってきて、凪の肩に掛けてやる。凪は「ありがとうございます」と言って頭を下げる。
勉強が楽しいのか、それともなにか役に立ちたがっているのか。嵐にはわからない。凪も特に言わない。だがきっと、止めたら凪は隠れてやるだろう。だから強くは止めなかった。
そんなことをぼんやりと考えながら、嵐はキッチンに向かう。ホットミルクを作っている最中、嵐は凪の母親のことを思い出していた。そうして、はちみつを入れたマグカップを凪に差し入れする。コト、と置くと、凪がペンを走らせていた手を止め、嵐の顔を見る。
「……これ」
「牛乳は骨を作る成分だ。はちみつは栄養がある。それに、糖分は脳のエネルギー源だ」
ㅤ嵐がそう説明すると、凪は不思議そうに嵐を見て、それから口を開いた。
「……ありがとうございます」
そう言って、マグカップを両手で持つ。ふーっと息を吹いて、そして一口飲む。
「……甘いです」
ほう、と息をついた凪の目が、とろんとする。嵐は凪のその顔を、静かに見つめた。
少しして、凪が小さく「あ」と声を上げた。そして腹に手を当てる。
「どうした。痛いのか?」
嵐が凪の顔を覗き込むと、マグカップを置いて凪は首を振った。
「今……動いた気がして」
喜びよりも戸惑いの色が強いその表情に、嵐は育児書を思い出す。
「二十二週なら、動く頃だ」
ㅤ凪は腹を見下ろしたまま、小さく呟く。
「……生きてるんですね」
「当たり前だ」
凪がふっと息を吐いた。
「さっきのは、どこだ」
「このへんです」
お腹をさする凪を見下ろし、嵐は手を伸ばす。
「……触っていいか」
「はい」
凪が頷く。嵐はそっと手を当てた。柔らかく丸みを帯びた腹の向こうに意識を向ける。けれど、その時はもう動かなかった。
「……動かないな」
「さっきだけでした」
凪はそう静かに言う。
「そういうものらしいな。……また、動いたら教えてくれ」
「はい」
嵐はそう言って手を離しかけた。その時、凪が腹を撫でながらふっと顔を上げる。
目が合った。さっき飲んだホットミルクのせいか、凪の頬が少しだけ赤い。睫毛の影が揺れて、その瞳が妙に柔らかく見えた。
気付けば、嵐の指先は凪の頬に触れていた。びく、と凪の肩が小さく揺れる。
「あ……すみません」
なぜ凪が謝るのかわからなかった。だが、そのか細い声が余計に嵐の感情を揺らす。なぜ。考えている合間に、親指が頬から唇にかけてのラインをなぞった。そこで凪が息を止める。近い、と気付いた時には、もう互いの呼吸が触れそうな距離だった。凪も気付いたのか、ゆっくりと瞬きをする。けれど、目は逸らさなかった。
嵐は数秒そのまま凪を見つめて、それからはっとしたように眉を寄せる。
「……悪い」
低くそう言って、嵐は先に離れた。我に返った嵐は立ち上がる。自分の鼓動が、妙にうるさかった。誤魔化すように、少しだけノートを見る。嵐はノートをとんとんと指差した。
「ここ、Xの値が違うぞ」
「……あ」
凪もまた戸惑いながらもペンを握り直し、ノートへ向き直る。
「……もうそろそろ寝ろ。無理はするなよ」
「はい」
そう言って、嵐は寝室に戻る。
ドアの外からは、静かにペンを走らせる音が聞こえていた。
寝室に戻って横になっても、指先にはまだ、さっきの感触が残っていた。
ほんの少し触れただけなのに、離してからのほうが妙に意識してしまう。
目を閉じると、凪の顔が浮かぶ。
腹に手を当てた時、戸惑ったように「生きてるんですね」と呟いた顔。やわらかく熱を持った肌の感覚。その奥にある、確かな命。そして自分を見上げる、あの無防備な目。
嵐は眉を寄せ、乱暴に息を吐いた。
……なにをしている。
あいつに、キスしそうになるなんて。
書店で立ち読みしただけの本の中にあった一節が、不意に頭を過ぎった。妊娠中の身体の変化や、夫婦の距離感について書かれたページだった。
毛布を握る手に、わずかに力が入る。
違う。あいつは、そういうものじゃない。守るものだ。決して、間違えるな。
そう心の中で言い聞かせ、嵐は体の向きを変えた。そして熱を振り払うように、毛布を頭から被る。
——まるで、凪みたいだと思って、余計に眠れなくなった。
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