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アクアリウム│明日の香り

 次の日。仕事を終えて会社を出ると、オフィスの前に明日香がいた。明日香は嵐を見るなり、こちらへ走り寄ってくる。 「どうしたんだ、急に」 「今日仕事が早く終わるって、貴方のお父様に聞いたから来ちゃった」 「……そうだったのか」 ㅤそのまま駐車場へ向かう。車の前まで来たところで、明日香がふと思い出したように笑った。 「本当は久しぶりに嵐の家に寄ろうと思ったんだけど、こっちの方が近いし、すぐ会えると思って」  車のドアに掛け、引こうとしたところで空振る。嵐はなんでもないように気を取り直し、助手席のドアを開ける。 「最近、どうしてるの?」  車に乗り込むと、明日香にそう訊かれる。嵐は答えられなかった。 「ここのところずっと忙しそうね。……このブランケット、嵐が?」  助手席のシートに置いてある、無地のブランケットを見つけた明日香がそれを手に取る。 「寒いからな」 「そう。珍しいわね」  嵐は明日香の手からブランケットを預かると、自分の膝の上に置いた。 「どこかカフェかバーにでも寄る?」  明日香は軽く笑い、何事もなかったように話題を変える。嵐は一瞬だけ間を置いた。そのあいだに、明日香がどういう思考を辿ったのかも理解する。だが同時に、触れないと決めているのもわかった。  明日香は少し間を開けて、「あんまり時間かけることもないわね」と言った。  嵐はそれ以上なにも言わず、車を発進させた。やがて、コンビニの駐車場に車を停める。 「なにか飲むか。買ってくる」 「カフェラテ。あったかいの。レギュラーでいいわ」 「わかった」  車を降りて、コンビニに入る。コーヒーとホットのラテを頼む。店の隅にあるコーヒーマシンに、カップを入れる。抽出されているのを待っているあいだ、ぼんやりとメニュー表を眺める。ホットミルクが端の方にあるのを見つける。値段は一番安い。はちみつは、有料オプションだった。  二つのカップを手に取り、駐車場に戻る。明日香は中からドアを開け、嵐の手からカップを受け取る。 「ありがと」  車を駐車場に停めたまま、しばらく、ホットドリンクを飲む音が車内で静かに聞こえていた。  最初に口を切ったのは明日香だった。 「それにしても珍しいわね、水族館に行くなんて。お土産配ってるって、貴方のお母様から聞いたわよ。ね、私にはないの?」  明日香がふとそう口にする。期待するような眼差しに、嵐はカップを置く。 「……ある。君に会ったら、渡そうと思っていた」  嵐が鞄から取り出した水族館のキャンディ缶を渡すと、明日香はへえ、と面白がる。 「本当にあるのね。……ねえ、今度私も連れて行ってよ」  嵐は一瞬詰まる。 「そのうち」 「ふふ、期待しておくわね」  明日香はそう言って笑った。しかしすぐに、明日香は思い出したように嵐の方に顔を向ける。 「誰かと行ったの?」  ふと、明日香は思い出したようにそう聞いてきた。疑っていたり問い詰めたりするような口振りではなく、本当に不思議に思っているような口調だった。嵐は「ああ」と短く頷く。 「……家がなくて、行く宛もないオメガの少年を保護している知り合いがいる。最近、そいつの相談に乗っている」  明日香の眉がわずかに寄る。 「少年って……親御さんは?」 「父親はいるらしい。……本人は連絡したがらないが」 「でも、一度は親に任せるべきじゃない?」  迷いのない声だった。  そう言われて、嵐は頭を巡らせる。凪の親。……想像が付かない。嵐の頭に浮かぶのは、あのはちみつ入りのホットミルクだけだった。 「無理なら、行政とか施設とかはどう?ㅤそういう時のためにあるんだから、頼ってこそよ」  明日香は笑ってそう言う。どうしてそんなことを聞くの、という、少しの呆れも混じっているような気がした。けれど嵐は、それが正しい感覚で、正常な判断だということは理解していた。 「貴方もそうするでしょう? 気持ちはわかるわ。でもリスクを取るような人じゃないでしょう、貴方」  明日香に言われて、嵐は納得しそうになる。一口目から進んでいないカップへと、視線が落ちる。 「……そうかもしれないな」  そしてそう頷く。不自然にならないように、自然に。  だが、本当にそうだと言えるか。  しばらくして、また車内は静かになる。明日香がカフェラテを飲み終わる。嵐のコーヒーは全然減っていなかった。 「……送ろうか」 「いいえ、ここでいいわ。迎えを呼んだから。カフェラテご馳走様、お土産ありがとうね」  そう言って明日香は降りて行く。ジョーマローンの香水をふわりと残して。 「気をつけてね。また今度、出かけましょう」 「ああ」  明日香がひらひらと手を振る。嵐は手を上げて応える。やがて明日香の言葉通りに迎えの車がやって来たのを見て、嵐はエンジンを掛けた。  車を走らせながら、頭の中で、明日香の言葉が繰り返される。正しい判断だ。合理的で、リスクも少ない。  施設に入れる。行政に任せる。それが正しいことは、わかっている。凪を拾った時も、妊娠を知った時も考えた。でも結論は同じだった。だからか、理解して、納得ができても、受け入れることはできそうになかった。  家に着く。エンジンを切ると、急に静かになる。しばらくそこから動かずに、嵐は前を見る。助手席を見ると、凪が使っていたブランケットが置いてある。  ……リスクを取らない。  たしかに自分は、そういう人間だったはずだ。どうして、いつのまに。 ㅤいろんなことを考えながら、ドアを開ける。冷たい空気から暖かい空間に取り込まれて、どこかほっとする。靴を脱いで玄関に上がる。……凪の靴が、少しずれて置いてある。嵐は無言で、そっと直した。  そのまま家に入ると、リビングの明かりがついていた。テーブルに向かって、凪が座っている。ノートを広げたまま、手を止めてこちらを見た。 「おかえりなさい」  嵐は一瞬、言葉が出なかった。  ……凪がいる。生きて、ここで生活をしている。 「ああ。……ただいま」  凪は少しだけ姿勢を正す。どこか様子を窺うような目だった。嵐はその視線に気付いて……すぐに、逸らした。  凪が、違うところで生きる。 ㅤ――どこで、誰と。  頭の中で言葉が浮かんで、すぐに消える。 「今日は、どうだった」  代わりに、それだけを聞く。凪は一瞬きょとんとして、それから小さく答えた。 「少しだけ進みました」  そう言って、ノートを指で押さえる。褒めてほしいのか、違うのか、よくわからない顔だった。  嵐は一歩だけ近付く。ノートに視線を落とす。途中で止まっている式と、消した跡が見える。 「……ここは、合ってるな」  それだけ言って、ペンを取る。凪が顔を上げる。  嵐は何事もなかったように、スーツを脱いだ。

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