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亀裂│いちごと沈黙

 その日も、嵐は凪の健診に付き添っていた。 「……なにか、食べてから帰るか」  付き添った帰りに、ふと嵐はそう言って凪へと振り返った。  少し寒さの和らいできた緩やかな日差しの中で、嵐の古いマフラーを首に巻いた凪は、嵐を見つめたままぱちぱちと瞬きをする。肯定も否定もしない凪を見て、嵐はどこか店を探そうと決めた。  病院の向かいに喫茶店が見える。指差して、嵐は凪を連れて行く。 「あそこで少し休むぞ」 「はい」  凪は静かに頷いた。  入って、奥のボックス席に通される。凪がマフラーを解いて、丁寧に畳んでソファの上に置く。テーブルにメニューがひとつしかないことに気付いて、嵐は手にしたメニューを見る角度を少し緩めた。 「なににする」  凪はメニューを見ないで言った。 「お水で」 「……一人一品注文する決まりだ」  嵐はワンオーダー制、と書かれた注意書きをトントンと指差す。凪は少しだけ首を伸ばして、嵐の広げたメニューを覗き込んだ。  ページをめくる音が、落ち着いたボサノバの合間に静かに聞こえる。凪の視線はプリンアラモードから、ホットケーキ、ソーダフロートへと流れた。一冊、物語を読むみたいにしてメニューを見ていた凪の前で、嵐は静かにそれを閉じる。 「どれにする」  そう訊ねると、凪が静かに指差した。……一番安い、ブレンドコーヒー。 「……それでいいのか」  凪は無言で頷いた。嵐は一度だけ息をついて、店員を呼ぶ。 「ブレンドコーヒーを一つ。ショートケーキのセットで。……あと、ホットココアを。ミルクレープのセットで」  そう注文を終えた嵐を、凪は不思議そうな目で見つめていた。 「今日って、なにかのお祝いですか」 「いや。……食べたいだけだ」  ケーキが運ばれて来るまでのあいだ、嵐は凪に健診のことを聞く。 「子供の性別は。そろそろわかる頃じゃないか?」 「……産まれてきてくれれば、それでいいです」 「そうか」  嵐は少し気になったが、腹の子が順調に育っているならそれでよかった。  そうして、ケーキとドリンクのセットが運ばれてくる。嵐の前にはココアの芳醇な甘い香りが漂う。凪は自分の目の前にあるコーヒーの、真っ黒な水面を見つめた。  凪はそっとカップを持ち、ゆっくりとコーヒーに口付けた。 「……っ」  たちまち、凪は顔をきゅっと顰めた。眉間に皺を寄せて歯を食い縛り、そしてそっとカッブをソーサーに戻す。  嵐はため息をついて、静かに自分のホットココアと交換した。 「……すみません」 「いい」  入れ替わったコーヒーとココアを見て、凪は俯く。 「ケーキも食え。……無理なら残していい」 「……ありがとう、ございます」  嵐はコーヒーを啜り、凪がケーキ周りの透明なフィルムを剥がす。それを手に取り口元まで運ぼうとしていることに嵐が気付くと、凪は動きを止めた。 「っ、すみません」 「……いや、いい」  凪は慌ててフィルムを皿の横に起き、それから縮こまる。赤くなった顔を上げずにケーキに手を伸ばすこともしなくなった凪を見て、ふと嵐は一度置いたミルクレープのフィルムを再び手に取った。  凪が見ている前で、嵐がフィルムを広げる。内側にクリームがついている。嵐はそれを見てフォークを手に取り、真ん中に寄せ集めてからそれを口にした。凪は感心するような目で嵐を見て、それから嵐の真似をしてクリームをすくって食べた。  凪は最初に上に一つだけ乗っているいちごをそっと皿の端に置き、少しずつケーキを食べ進める。ケーキをちびちびと食べる凪を見つめる。嵐の視線に気付いた凪は、慌てて食べ進めようとする。 「ゆっくり食べろ」  そう言うと、凪はこくこくと頷いた。  最後にいちごが残る。凪は少し迷ってからそれをフォークでそっと持ち上げ、半分以上残っているミルクレープの皿に、ころんと乗せた。 「……これ、どうぞ」  嵐は手を止めた。 「お前のだ。食え」  そう言うと、凪は「いいんですか」と恐縮する。無言で凪の皿にそれを返すと、凪はゼリー液でコーティングされたきらきらしたいちごを、ゆっくりと口に入れた。  それを見届けて、嵐は静かにコーヒーを啜った。 「――そういえば、凪の家族はどうしてる」  カフェを出て、駐車場までの道のりで嵐はなにげなくそう聞いていた。凪は足を止めた。足音が消えたことに気が付いて、嵐も少し引き返す。 「凪?」 「どうしてそんなこと、聞くんですか」 「……いや。子供が産まれたなら、連絡は取れた方がいいだろう」  凪の表情は硬く、目は嵐一点を見つめていた。 「必要ありません」  凪は素っ気なくそう言う。鋭いその声を初めて聞いて、嵐は一瞬言葉を失う。 「どうしてだ。妊娠していることは、お前の父親は知っているんだろう」 「嵐さんには、関係ありません」  そして凪は歩き出す。関係ない、と言われて、一瞬腹の底が熱くなった。けれどそこですぐに落ち着きを取り戻し、嵐は少し考えてから言葉を探す。ただの拒絶ではない、触れてはいけないものに触れた時の反応だった。 「……事情があるのか」 「……」 「それなら、いい」  凪は俯く。それから長いこと、凪は黙っていた。  車に乗っても凪は無言のまま、助手席から窓の外を見ていた。

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