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亀裂│告白と殺意
けれどそれからも、凪はいつも以上に大人しかった。妙に嵐と視線を合わせようとしなかった。食事は早めに打ち切るし、嵐が歯磨きをしに脱衣所に入ると、凪は口をゆすいで入れ替わるようにあとにする。……避けられている。明確に意識した瞬間、嵐の中に理由のわからない焦りが浮かぶ。
寝室に入ると、凪は先に布団に入っていた。頭の先まで毛布にくるまった凪を見て、芋虫みたいだなと思いながら、嵐もまたベッドに入る。
そうして嵐がうとうとし始めた、その時だった。
「嵐さん」
「……なんだ」
嵐はぼんやりと目を開ける。オレンジ色の常夜灯の中、凪の息遣いが小さく聞こえる。
「昼間の、ことなんですが」
「ああ」
嵐は思い出す。
「……家族の話か」
嵐がそう言うと、凪が布団の中で頷く気配がした。少しして、凪が話し始める。嵐は目だけを凪の方に向ける。
「父とは血が繋がっていません。……母は、おれが義父と関係を持ったことで、出て行きました」
……一瞬、理解が追いつかなかった。
「……は?」
ㅤ急速に眠気が引いていく。
今度は目だけではなく、顔全体を向ける。
凪は布団から少しだけ顔を出して、それから続ける。
「お腹の子が、義父の子かどうかはわかりません。可能性は高いと思います。でも発情期の時、おれは義父が呼んだ『客たち』に、何度も……」
嵐は体を起こし、暗闇の中で凪を見る。静かに息を吸う。喉が震えた。
凪は他人事のように感情のない声で、淡々と喋る。
「妊娠したら、暴力も、客を取らされるのも、終わると思ってました。でも、金がかかるだろうと怒られて……それから、義父は帰ってこなくなりました。家に食べ物がなくなったので、おれは外に出ました」
嵐は口を開けたまま、ただ凪を見つめることしかできなかった。なにも言えないでいると、凪が布団の中、背中を向けたまま顔だけを嵐へと向ける。目が合う。凪が瞬きをする。
「そうしてるうちに嵐さんと出会って……。初めて、美味しいものを食べました。ちくちくしない服を着て、あ、あったかい布団で、眠れて。朝起きても、そのままで……なにも、されませんでした」
か細い声が、少しずつ震え始める。凪の目が、常夜灯の光を受けて煌めいている。
「嵐、さん」
凪が名前を呼ぶ。それだけでも精一杯なのか、凪の言葉はそれだけだった。縋るようで、それでいて自分の中だけで抱え込むように名前を呼ぶ。どんなつもりで嵐の名前を呼んだのだろう。考えたがわからなかった。
しばらくのあいだ、嵐は黙り込む。それから静かに言葉を選びながら、口を開く。
「……お前は、何歳だった」
凪が年齢を言う。
嵐の手が震える。凪は目を伏せ、そして再び嵐に背を向ける。
「その人間は、今どこにいる」
「……わかりません。でも、おれが悪いんです。おれが、誘ったから」
「そんなわけがあるか」
嵐は間髪入れずに否定する。子供にそんなことができるはずがない。けれど凪は小さく声を上げ、頭をますます布団の中に入れる。
「……それは、お前の責任じゃない」
嵐は怒りの矛先を外に向ける。けれど凪は再び「すみません」と小さく謝罪を口にした。嵐は息をつく。そしてベッドから降り、凪の隣に膝をついた。
「……隣、いいか」
凪は否定も肯定もしなかった。嵐は凪の隣にそっと体を横たえる。凪が息を呑み、一瞬肩を竦める。空気が張り詰めたのもつかの間、凪は少しだけ端に寄る。
「凪」
名前を呼ぶ。そして後ろからそっと、凪を抱き締めた。凪は身を強ばらせたが、拒絶しなかった。あるいは、拒絶の仕方も知らないのかも知れない。
前に回した手が、自然と凪の腹に触れそうになる。凪が息を吐く。嵐は躊躇いながら、恐る恐る手を伸ばす。
「触って、いいか」
「……はい」
短く許可を取ると、凪はたしかに返事する。嵐は自身の手を凪の少し膨らんだお腹に添え、確かめるように触った。温かく、かすかに柔らかい感触がする。その下で、なにかに触れた気がした。気のせいかもしれない。だが、そこに命があることだけは理解できた。
ㅤそれと同時に、この子がここにいる理由も。
ㅤ思わず力を込めそうになって、嵐はどうにか踏みとどまった。
ㅤ――妊娠がわかった時、凪は堕ろすことを考えていた。あの時、ただの金の問題だと思っていた。そう思い込んでいた。
ㅤなぜ、もっと聞いてやらなかった。
外では雨が降り始める音がする。窓を叩く雨音の隙間に、凪のすすり泣きが混じる。時折、凪の呼吸が乱れる。押し殺していた嗚咽が、ひくっと喉に引っかかるような音が聞こえる。けれど嵐はそれを聞いてもなにも言わなかった。
嵐は凪の呼吸が落ち着くまで待つ。そのうちに凪が静かになって、規則的な寝息が聞こえてくる。回していた腕を少し緩め、嵐は目を閉じる。
暗くなった視界の中で、義父の存在を頭の中に思い浮かべる。その瞬間、胸の奥に冷たい感覚が生まれる。殴りたいだとか、怒鳴りたいといった感情ではない。この人間は存在してはいけないのではないか、という思考が一瞬よぎる。
そこまで考えて、嵐はその思考の正体に気付く。
これが、殺意というものか。
こんなにも誰かを憎いと思ったのは、生まれて初めてだった。息が詰まるほど重くて、冷たい。大人の自分でさえこんなにも胸が詰まるのに、凪はもっと幼い年齢で、それを身に受けてきた。
ぐ、と喉の奥で声を押し殺し、奥歯を噛み締める。
……どうして、お前が。
嵐は目を開ける。
ㅤ腕の中で、凪の体温がじわじわと伝わってくる。呼吸のたびに、凪の細い背中が動く。
繊細なものを抱えている感覚に、嵐はほんのわずかに力を込める。凪から離れないように。壊さないように。
そうすると、凪の寝息が少しだけ深くなる。それを確かめてから、嵐はふっと力を抜いた。
お前を、守る。
言葉にはしなかったが、その形だけははっきりと胸に残った。
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