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亀裂│正しさの外側
朝になって、嵐は目を覚ました。
隣にいる、凪の顔を覗き込む。まだ眠っている。目元が少し赤い。けれど寝息は穏やかだった。嵐はそっと体を離す。そのまま、嵐はスーツに着替えて出社の準備をする。
家を出る前にもう一度凪の様子を見ておこうと寝室を覗くと、凪が上体を起こしていた。眠そうに瞼を擦っている。
「起こしたか、悪い。まだ寝ていろ」
「ん……朝ごはん、すぐ作ります」
凪はそう言って起き上がろうとする。けれど腹が大きくなっていることを忘れているのか、凪がバランスを崩しかける。慌てて駆け寄った嵐は思わず凪の肩を掴んで支える。それから凪を布団の上に座らせる。
嵐は凪の肩から手を離さないまま、凪に言い聞かせた。
「大丈夫だ。……俺は大丈夫だ、凪」
凪は寝ぼけているのか、ぼんやりした目で嵐を見つめたまま、しばらくして「すみません」と口にした。そして糸が切れたように、また布団に横になる。嵐は息をつく。
最後に顔を覗き込んで、嵐は眠っている凪の頭を、そっと撫でた。
「……行ってくる」
昼休み、三浦がまた嵐に近寄ってきてはそう聞いてくる。早く飯に行けと思いつつ嵐は三浦を睨む。まったく効果はなかった。三浦は興味津々と言った風に付きまとい、嵐の持ってきた中身を覗き込む。
「あれ? 前確か弁当だった気が……家政婦さん、辞めちゃったんすか?」
妙に鋭い三浦のその指摘に、不格好なおにぎりのラップを剥がす手が一瞬止まる。
「そんなところだ」
そう言って、嵐はおにぎりにかぶりついた。けれど三浦は気付かないまま呑気に言う。
「いいなぁ……社長の息子で仕事も自炊もできて、ホテル経営のご令嬢と婚約してて……しかも相手はミス慶央のファイナリスト……」
三浦が遠い目をしている。ずず、とスープジャーから味噌汁を啜り、嵐は目を細める。
「そういえば、主任、そろそろ誕生日っすよね。また明日香さんと過ごすんすか~?」
明日香。嵐の頭の中に彼女の姿が浮かんだ瞬間、少しだけ胃が重くなる。
「……いや。予定は決まっていない)
「え。じゃあ、今度俺と一緒に呑みいきませんか!?」
「奢らないぞ」
「ちぇー」
三浦はそう言いながら、鞄を持って外出して行く。嵐はその背中を見送る。
最近、彼女となにを話しただろうか。思い出せなくて、プライベート用のスマホを久しぶりに取り出す。明日香からの連絡が数日前から来ている。案の定、誕生日記念のお祝いの日取りや店の希望を聞きたいという内容だった。
嵐は画面を見つめる。なんと返すかは、決まっていた。けれど本当に、そうするべきか。逡巡したのち、すぐに指を動かす。
『話したいことがある。時間をもらえるか』
それだけのメッセージ送る。すぐに既読がついた。
ついで、嵐は電話をかける。
迷いがない、といえば嘘になる。それでも、嵐は発信ボタンを押した。
「お世話になっております、黒川嵐です。婚約の件でお話したいことが――」
仕事を終えた嵐は車を走らせる。向かっているのは自宅とは逆の方向だった。
嵐は無線で接続したスマホから凪の連絡先を出す。発信ボタン押そうとして、一瞬迷う。嵐は意を決して押す。なんてことはない、ただの電話だ。
ほどなくして、凪が電話に出る。
「凪」
『……はい』
電話の向こうから控えめな声が聞こえる。思えば、電話をするのは練習の時以来だった。嵐はふっと肩の力を抜く。
「今日は遅くなる。ご飯とおかずを冷凍してあるから、それを食べててくれ」
『わかりました。嵐さんのぶんは』
「俺はいい。……切るぞ」
凪が息を吸う。なにか言いたげな気配に、嵐は「どうかしたか」と零す。電話の向こうで、凪がふっと息を緩める音が聞こえた。
『離れていても、声、聞こえるんですね』
「ああ」
『……いいですね』
「そうだな。……夕飯、ちゃんと食べろ。なにかあったらすぐに連絡してくれ」
『はい』
それだけを言って、電話を切る。
嵐はアクセルを軽く踏み込んだ。
少し前から、嵐は気付いていた。
明日香と向き合うたび、自分の中にわずかな違和感が生まれることに。以前なら自然に返せていた言葉が、喉の奥で引っかかる。彼女が笑えば笑うほど、嵐は息苦しくなった。
不誠実だと思った。
このままでは、明日香にも失礼だ。
凪が妊娠していると知った時から、どこかでこうなる予感はあったのかもしれない。けれど義父の話を聞いた夜、嵐の中でなにかが決定的に変わった。
もう、見て見ぬ振りはできなかった。
彼女との婚約がどれほどの物か、理解している。彼女の家が経営するホテルは、歴史のある一流のホテルだ。そこに叩き上げで会社を興した父が嵐に期待を寄せていることも知っている。父の会社にとって、明日香の家は、大きな取引先の一つだ。
明日香との結婚生活は想像できた。朝になれば隣に明日香がいて、お互いに仕事をして、休日には買い物へ出掛ける。家事は家政婦に任せて、見晴らしのいい高層マンションに住む。夜はシャンパンやワインを開ける。彼女のホテルで式を挙げ、彼女の友人や業界の人間も来るだろう。そのうち子どももできるかもしれない。賑やかな家庭になるに違いない。
どれをとっても、申し分ない。それなのに。それを考えても、なにも感じなかった。
――嵐さん。
あの控えめでやわらかな声が、頭から離れない。
気付けば、手放す理由が見つからなかった。
それだけだ。
仕事終わり、明日香をカフェに呼ぶ。やって来た彼女は一番奥のボックス席に座る嵐を見付けて、彼女は迷わずに歩いてくる。嬉しそうに笑顔を向け、手を振ってくる明日香を見て、嵐の胸に針で刺したような痛みが走る。
明日香は席につくなり、ウェイトレスに「ホットラテ一つ、砂糖はなし」と注文した。それから嵐の顔を見る。柔らかいその微笑みには、久しぶりに会えた恋人に対しての安堵が見えた。
「どう? 仕事の方は」
「……ああ、順調だ」
「それで、話ってなに? 今度の嵐の誕生日、どうするかそろそろ聞こうと思ってたの」
明日香はセリーヌのチェスターコートを脱ぎ、隣に置いたヴァレクストラのナイトブルーの鞄からスマホを取り出す。
「去年はリッツのメインダイニングだったでしょ。予約できるとこピックアップしてきたの。そうだ、欲しいものあったらそれも教えて」
「明日香」
そう言うと、明日香の動きが止まった。ウェイトレスが「お待たせしました」と明日香の前にマグカップを置く。
「なに?」
明日香がゆっくりとスマホから顔を上げる。嵐の声が硬いことに、明日香は気付いたかもしれない。
「……婚約を、解消したい」
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