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亀裂│選択と代償

 静かな声でそう告げる。明日香は別段驚きもしなかったが、スマホを操作していた指が止まった。普段陽気な琥珀色の双眸が、嵐に向けられる。 「そう」  それだけを言って、静かにスマホを置き、カフェラテのマグカップに口を付ける。なめらかな泡の表面が少しだけ歪む。 「理由を、聞いてもいいかしら」 「俺の都合だ。明日香は悪くない」  明日香は頬杖をつく。丁寧に手入れされた長いまつ毛が、ダークブラウンの瞳に影を落とす。嵐をじっと見つめていた明日香は、なにか閃いたように、あっと声を上げ人差し指を立てた。 「わかった。好きな人でもできたんでしょ」  嵐は答えない。目を合わせることもできない嵐に明日香はなにかを感じたのか、微笑みを讃えたまま静かに手を下ろした。 「このあと、きみの両親にも挨拶に行く。今日の昼にアポを取った」  そう言うと、明日香の表情がふっと変わった。少し寂しそうな、残念がるような顔。そしてまたすぐに顔つきが変わる。 「……本気なのね」  明日香の目が鋭くなる。けれどそれは責めるような目付きではなく、嵐の覚悟を問うような言葉だった。 「ああ」  嵐は頷く。明日香は嵐を見つめる。 「……パパは、貴方の仕事に対する誠実さや働きぶりを気に入ってた。ママも、嵐みたいな落ち着いた人なら安心ねって、言ってくれたのよ」 「すまない」  項垂れそうになって、それでも彼女へと顔を向けた嵐は口を開く。 「……俺は明日香のように社交的ではない。けれど、きみと過ごした時間は、楽しかった。きみの仕事に対する情熱も、人柄も、俺は尊敬している」  明日香は真っ直ぐに嵐を見つめたまま、視線を外さない。 「でも、私を選んではくれないのね」 「ああ」  嵐はそうきっぱりと言う他なかった。明日香はしばらくして、ため息を一つつく。 「……私、貴方が好きだった」  ひそやかにそう言った言葉に、嵐の呼吸が止まる。胸が痛くなる。  家柄だけではない。シャンパンの泡が弾けるような上品な笑い方。フルーティでフレッシュな香水の香り。気高くて柔らかい眼差し。明日香のすべてが眩しくて、選ばない理由がない。  けれど、嵐には凪を見捨てることができなかった。嵐の頭には、ボロボロの首輪を捨てずに、頑なに握り締めていた凪の姿が浮かんでいた。 「体には気を付けてね。……今度会う時、化粧ポーチ持ってきて。貴方の寝室にあるはずだから」  明日香はそう言って席を立つ。そうして笑顔を浮かべたが、少しぎこちなかった。 「じゃあね」 ㅤ明日香が笑顔で振り返り、入口に向かう。けれどガラスに反射して映った彼女の顔は、笑っていなかった。  彼女を傷付けてしまったことへの罪悪感を抱きながら、嵐は膝に手を置いて、去っていく彼女を見つめたまま動かなかった。  店を出てから、嵐はその足で明日香の実家へ向かった。  辿り着いた明日香の実家に、嵐は足を踏み入れる。嵐の実家である中古の日本家屋とは違い、重厚なシンメトリーの洋風住宅が嵐を出迎えてくれる。  石畳のアプローチを抜け、嵐は深呼吸する。それからインターホンを押した。  使用人の案内を受けて応接間に通されると、ソファに座って待っていた明日香の両親が立ち上がって出迎えてくれる。柔らかい笑みを浮かべているが目は鋭く、なにかを探るように嵐を見つめている。 「今日はお時間をいただき、ありがとうございます。……明日香さんとの婚約について、大事な話がございます」  嵐は単刀直入に切り込んだ。たちまち空気が張り詰める。思ったよりも唇が重い。 「このたび、明日香さんとの婚約を解消させていただきたく存じます」 「……急に、どういうことかしら?」  母の声は驚きと微かな警戒を含んでいた。嵐は息を吸って呼吸を整える。 「娘さんには何の非もございません。私自身の考えと責任の問題です」 「非もない……? なら、理由は?」  父は少し身を乗り出す。嵐は視線を下ろしつつ、丁寧に言った。 「私自身の生活環境や心情を鑑み、娘さんにこれ以上ご迷惑をかけることはできません。ですので、私の意思で婚約を解消いたします」  母は小さく息をつき、父は少し考え込むように目を伏せた。 「……嵐くん。きみは、説明できない理由で婚約を破棄する人間ではないはずだ。それは、明日香との婚約を解消してまで優先することなのかね?」 「……はい」  嵐は答える。二人とも上流階級の人間だ。嵐がなにを優先したのか、父が気色ばむのがわかる。今度は明日香の母が口を開く。 「その方の事情を支える形で関わることは出来るでしょう? 必ずしも婚約を解消する必要はないのではなくて? ……それでもなの?」 「はい」  嵐はただ、頷いた。明日香の父は静かに踏み込む。 「理由は言えないのか? その事情は、説明できないのか」 「申し訳ありません」  嵐は頑なに理由を言わない。 「……嵐さんは、礼儀と責任を重んじる方ですものね。わかりました」  母は戸惑いはあれど、そう言ってお茶を飲む。 「急なことに戸惑いはあるけれども……娘の幸せを第一に願ってのことなら……」  母は納得したようだった。そんな彼女の様子に目配せした父は、改めて嵐へと顔を向ける。 「……そうか。わかった。だが嵐くん、きみは自分がなにを失うか、理解しているのだろうね。明日香との婚約だけではないのだぞ」  嵐は唇を引き締め、それからしっかりと頷いた。  両親に見送られて、邸宅を後にする。去り際、嵐は深く頭を下げた。 「本日はご迷惑をおかけしました」  両親は言葉少なに頷き、形式上は納得した形になる。だが嵐にはわかる。この話はここで終わりになったわけではない。二人の目の奥には、まだわずかな不安と疑念が残っている。しかし嵐の心が動かないことを知ると、それ以上のことは踏み込んではこなかった。  明日香の家を後にした嵐は、車を走らせながら車内で母親に電話をする。 「今から家に行く」 『そう。……今、父さんもうちに向かってるわ』  嵐は息を呑んだ。けれどそれでいい。ある程度予想していた嵐は、「そうか」と言って電話を切った。  今さらになって、口角がわずかに上がる。自分が今なにをしているのか、改めて実感した嵐はその重力を振り切るように、ハンドルを切った。

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