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亀裂│選択のあとで
家に入ると、父が待ち構えていた。欅の一枚板を使用した座卓を挟んだ向こう側に、険しい顔の父と様子を伺っている母親がいる。
「座れ。橘さんから連絡があった。婚約を解消するというのか本当か」
父は単刀直入にそう聞いてきた。正座した嵐は父を真正面に、目を合わせて言う。
「本当です」
「理由は」
「俺の都合です」
間髪入れずに切り込んできた父に、嵐もまた淡々と返す。
「ふざけるな。婚約は子供の約束じゃない。お前は、事の重大さをわかっているのか」
父は机を叩いて言う。母の用意した茶の水面がわずかに揺れる。
嵐は真っ直ぐに頷く。
「はい」
「お前だけの人生ではないんだぞ」
「はい。理解しています」
返答が変わらない嵐に、父は睨む。
「そこまでする理由はなんだ。え?」
「……家で、オメガを保護している」
「それがどうした。そのオメガを捨てろとは言わん。責任を取るなら取れ。生活の面倒を見るなり、番にするなり好きにしろ。だが婚約は別だ。両方守れ。それがアルファの責任だ」
嵐の父から出る、両方維持しろという発想。わかっている。アルファの世界、上流階級ではよくあることだ。番にしたオメガを妾にするという文化を。明日香の母が言っていたのも、そう言うことだ。けれど、役割で凪を見たくはない。そう思った途端、口の中が苦くなる。
「それは、できません」
「なぜだ」
嵐は息を吸い、父を見つめる。言葉を探そうとするけれど、上手く出てこない。
「……俺が嫌だ」
結局口を突いて出てきたのは、そんな言葉だった。
「っ、子供みたいなことを」
父は嵐の言葉を一蹴する。父の顔が赤くなる。
「……もしかして、教科書の子?」
それまで父の隣でずっと黙っていた母は、嵐の顔を見てぽつりとそう言った。嵐は一瞬黙る。それから頷いた。
「ああ」
「なんの話だ」
父が顔を覗き込む。母が目配せして、それから一言だけ確認する。
「その子、いくつなの?」
「十八です」
「……そう。頼れる人はいないの?」
嵐は無言で首を振る。母はそれ以上聞かなかった。ただ、嵐の顔をじっと見ていた。けれど父はさらに怒りを顕にする。
「まさか、それだけで橘の婚約を破棄するというのか」
「はい。どんな処分も受けます」
父は「信じられん」と小さく口にする。嵐以上に合理的な考えを持つ父は嵐の考えを必死で理解しようとして、けれど理解しきれないのか顔を顰めていた。
「どういう目で見られるのかも、わかっているのか、お前は」
「はい。……昨日今日で決めた話ではありません」
そこまで言うと、嵐の父は項垂れた。そしてため息をつく。嵐は揺れない。真っ直ぐに父の目を見つめたまま、逃げない。父は頑なに意思を変えない息子を見つめたまま拳を震わせていたが、やがてふっと力が抜けたように息をついた。
「決めた以上、お前が責任を取れ。だが、橘さんとの取引からはお前を外す」
「はい」
「……馬鹿者」
最後に零れたその言葉には、怒りと諦めと、少しの認めがあった。そこでやっと、嵐の中に期待に応えられなかったことに対しての申し訳なさが立つ。
だがもう、今さら引き返すことはできなかった。
嵐は家を後にする。正直、家の敷居を跨ぐなと言われたり、閑職に回される覚悟もあった。けれど父はそれ以上は言わなかった。母に関しては「また連絡頂戴ね」とまで言っていた。
「……帰るか」
そう独りごちて、嵐は車に乗る。腹の奥では、凪に対する覚悟が石よりも硬く固まる。捨てたのではない。凪を、選んだだけだ。
凪の眠っている時の横顔を思い出す。体を小さく丸め、時折まつ毛を震わせたまま、唇がなにか言いたげに動く。その変化にふと目を覚ました嵐はいつも凪に声を掛けようとして、結局、より体を丸めてまた静かに寝息を立て始める凪を見つめることしかできなかった。
嵐は家へと向かう車を急がせた。
「ただいま、凪。遅くなってすまない」
「……おかえりなさい、嵐さん」
凪が律儀に出迎えてくれる。鞄とコートを預けることはないし、立ち上がるのも大変だろうし玄関は寒いから来なくていいと言っているのに、凪は毎回嵐を出迎えてくれる。嵐はいつもよりあたたかいものを感じながら、家に上がる。
「夕飯は食べたか」
そう聞くと、凪はふるふると首を振る。
「まだです。……すみません。勉強、してて」
「いや、いい。なら、一緒に食べるか」
「はい。……あの、スープ、おれが作ります。昼間に野菜、切って冷凍してあるので……」
「なんでだ。家事なら俺がやる」
そう言うが、凪は食い下がる。
「……昨日、健診で、お医者さんが言ってました。家事、しても大丈夫だって」
その言葉に、嵐がふいと凪へと振り返る。凪はすぐに視線を逸らし、「すみません」と小さく謝罪する。
ㅤ嵐は「そうか」と言って、エルメスのネクタイを解いてシャツの襟を緩めた。ネクタイをクリーニング用の紙袋にしまったのち、嵐はキッチンの収納から鍋を出してやる。
「それなら俺が風呂をやろう。……無理はするな」
「はい」
凪がこくりと頷いたのを見て、嵐はバスルームへと向かった。
嵐は、凪には婚約解消の話はしなかった。自分の決断は自分で選んだことだ。凪に話す必要はない。そう判断してのことだった。
それからはいつも通りだった。家事をして、仕事に行って、夕食を食べ、凪の勉強を見て眠る。
変わったことと言えば、時々嵐は凪の布団で一緒に寄り添って眠ることが増えた。毎日ではない。凪が悪夢を見た夜、胎動が強くて眠れない夜。嵐が様子を見て、そういう時だけ嵐が「隣、いいか」と言って横に来た。そうして凪は少しだけ隙間を開け、嵐の侵入を許す。そして一緒に眠りに就く。
凪はいつも、嵐に背中を向けて寝た。
嵐は仕事帰りにベビー用品専門店に立ち寄った。いつの間にかベビー服を選んでいた。手に取った時、思ったよりもずいぶん小さい布だと感じた。そのままレジへ持っていく。受け取った袋は軽かった。
家に帰った時、凪は静かにその袋を見たが、手を触れようとはしなかった。
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