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訣別│消失
平穏でどこかぎこちない日々の中、嵐が仕事に向かおうとしていた朝のことだった。
「おはようございます……」
仕事に行く準備をしていると、のそのそと起きてきた凪がブランケットを肩に掛けながらリビングに出てきた。寝癖が少しついている。ぴょこっと横に飛び出た一束の毛を見つけた嵐は自分の頭を指して言う。
「寝癖、ついてるぞ」
ㅤ凪が首を傾げた。ぺたぺたと自分の頭を触るが、肝心のところには届いていない。息をついた嵐は、凪へと近付いて彼の頭に手を伸ばす。凪はぎゅっと目を瞑って体を強ばらせる。一瞬、嵐は手を止める。それから凪の髪にそっと触れ、寝癖を直そうと頭を撫で付ける。けれどいくら撫で付けても、凪の髪はしぶとく反り返っていた。
ㅤやがて凪は困った様子で目を開け、嵐に言う。
「あ、あの、あとで櫛で梳かします……」
「ああ……そうしろ」
「すみません」
凪の返事に頷き、嵐は仕事へ向かおうと玄関へ向かった。
「嵐さん」
呼び止められて、「なんだ」と振り返る。
凪は少し迷うように視線を揺らしてから、小さく口を開いた。
「……今日、帰ってきますか」
一瞬、意味がわからず嵐は眉を寄せる。
「帰るが。……何時、という意味か?」
「……はい」
「いつも通りだ」
そう答えると、凪は「そうですか」とだけ言って目を伏せた。珍しいと思った嵐は、靴を履いてから顔を上げる。
「なにかあるのか」
そう聞いても、凪は小さく首を振るだけだった。
「な、なんでもありません」
「……そうか」
出社の時間が迫っていた。嵐は数秒だけ凪を見たあと、玄関のドアに手を掛ける。
「行ってくる」
「……はい。行ってらっしゃい」
ドアが閉まる直前まで、凪の表情が妙に頭に残った。
会社に行くと、何故か三浦がニヤニヤしながら出社してきた。
「遅い。十分遅刻だぞ」
「すみませーん遅延してぇ……あっこれ遅延証明書です」
三浦が嵐に紙切れを差し出す。嵐はそれを受け取り、記録用の帳簿に貼った。
「……気を付けろ」
そう言うと、三浦は「えっ」と声にして目を丸くした。
「なんだ」
そう反射的に聞くと、三浦があからさまに狼狽える。
「主任、最近優しくなりました?」
「そうか?」
「そうっすよ。前はミスしたらめちゃくちゃ怖かったですし」
「……そうだったか」
「なんかいいことありました?」
「別に」
そう言われて、嵐はふと考えた。
ここ三ヶ月ほどで、自分で朝食を作るようになった。定時で帰る日が増えた。病院の予定を覚えるようになった。誰かの体調を気にするようになった。確かに、以前なら考えなかったことばかりだ。
……全部、凪が来てからだ。
そう思った瞬間、嵐の頬はふっと緩んだ。
昼休み、また三浦が嵐のデスクにやってきた。また他人の弁当でも覗きにきたか。にやにやしている三浦を睨みながら咳払いをすると、三浦はにやけ顔を崩さずに言う。
「で、今日は明日香さんと?」
「いきなりなんの話だ」
「今日、主任の誕生日っすよね。おめでとうございます。今夜は二人でディナーっすか?」
「ああ……いや、もう明日香とは合わない。婚約は破棄した。ホテルタチバナとのプロジェクトからも外れる」
「えっ!」
三浦がまあまあ大きい声を出した。嵐は三浦をぎろりと睨む。
「な、なんでですか。めっちゃいい縁談だったじゃないですか! そこそこお似合いだったっていうか、普通明日香さん以外考えられないッスよね?」
三浦が早口で捲し立てる。うるさいと一喝するが三浦は聞き入れない。
「まさか、明日香さん以外に結婚したい人ができたってことッスか!?」
話をまったく聞かない三浦を睨む。だがその時、嵐ははたと気がついた。
明日香との婚約は破棄した。親にも話は通した。しがらみはない。が、なにか引っかかる。
このまま行けば、凪は子供を産むのだろう。その時、自分はどこまで面倒を見て、どこまで、関わるつもりなのか。
……いっそ、凪と結婚してしまえば。そう考えた瞬間、自分で眉を寄せた。
凪はきっと頷く。「そうした方がいい」と言えば、あいつは受け入れるだろう。だが、それでは意味がない。あいつはまだ、自分で選べない。
だから、もし願うなら……凪に選ばれたいと思うのは、傲慢だろうか。
仕事を終え、マンションのエントランスを抜けながら、嵐はまだ考えていた。
婚約を解消したことは話しておくべきだろう。子供のことも、一人で抱え込まなくていいことも。
そこまで考えて、嵐はポケットから出した鍵を取り落とした。……どうにも上手く言える気がしない。
「話がある」
たぶん最初はそうなる。あとは、その場で考えるしかない。
不意に、今朝の凪の顔が脳裏を過った。
『今日、帰ってきますか』
……あれは、なんだったのだろう。珍しくなにか言いたげだった。もしかすると、凪の方にも話があったのかもしれない。それなら、ちょうどいい。
「ただいま」
ドアを開けた時、部屋の電気はついていなかった。凪の出迎えは今日はない。とはいえ、たまにこの時間は眠っていることもあるから不思議ではなかった。
なぜか、香水の残り香がした気がした。甘ったるい安物の匂いではない。もっと落ち着いた、どこかで嗅いだことのある上品な香りだった。
「凪。……寝てるのか」
嵐はリビングの電気を付け、そっと寝室のドアを開ける。だがそこに凪はいなかった。布団が畳まれて置いてあるだけだ。
ㅤ嵐は寝室の電気を付ける。そして自分のベッドの毛布もめくる。……いない。
「凪?」
もう一度名前を呼んで、今度は書斎に入る。凪の姿はない。トイレ、バスルーム、ベランダも一通り確認する。
「……出かけてるのか」
ㅤ嵐はそう思って、ソファに腰を落ち着けようとした。一人で買い物に行くなんて珍しいと思いながら、凪に電話をする。
ㅤ……着信音が鳴る。足元、テーブルの下の充電器に、凪のスマホが刺さっている。
ㅤ嫌な予感がした。
ㅤ嵐は玄関に引き返す。戻ると、帰る時は素通りしていた、財布も鍵も、エコバッグも、全部そこにあった。
「……凪」
息が浅くなる。
ㅤ凪が、いない。
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