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訣別│条件
『化粧ポーチの件だけど、ちょうど仕事で近くに寄る用事があったからついでに取って帰るわね。お誕生日おめでとう』
嵐はそれを見て戦慄した。日付は嵐の誕生日。時刻は夕方。
「……っ、は」
指が震え、呼吸が浅くなる。画面の文字が揺れて見えた。思い立ってすぐ、嵐は明日香に電話をかけていた。呼出音の中、嵐は喉を鳴らす。
冷たい感情が嵐の胸を満たす。明日香がそんな人間ではないと知っている。それでも嵐は、電話を掛けずにはいられなかった。
『嵐?ㅤどうしたのこんな時間に』
「明日香! 昨日、家に来たのか? ……凪に、なにを言った。凪が、そっちに向かったりはしてないか?」
声が震えそうになるのを抑えて、つとめて冷静に尋ねる。明日香は軽く笑う。
『ちょっと、落ち着きなさいよ。凪って、家にいたあの子?』
「そうだ。っ、もし凪になにかあったら、俺は……っ」
『待って、たしかに彼と話したわ。でも、私はなにもしてない。……貴方が不器用な男だから、支えてやってって言っただけよ』
どこか余裕の感じられる彼女の声に、嵐の眉間に皺が寄る。嘘をついているようには思えない。だからこそ、嵐は混乱した。
確たる証拠はないにせよ、嵐の中で、どんどん悪い想像が嫌な方向に膨らんでいく。
「っ、本当にそれだけか?」
『ええ、なにも聞いてないわ。彼、ずっと静かだったわ』
それを聞いて、嵐はスマホを握り締めていた手を緩めた。やはり明日香はそんなことをする女性ではなかった。一度でも疑いかけた自分を恥じたくなる。
『彼になにかあったの?』
「凪がいなくなった。明日香、もしよかったら、凪を見かけたら、連絡してくれないか」
電話の向こうの明日香が一瞬黙る。それから、口を開く音が聞こえた。
『わかったわ。写真、送ってちょうだい』
「写真……」
そう言われて、言葉に詰まった。慌ててカメラロールを探す。……ない。空っぽのカメラロールを探してみても、凪の写真は一枚もない。
『他にないの? プリクラとか、チェキとか……いやもっとないわね……』
明日香の呆れた声が聞こえる。だが、嵐はその言葉にはっと顔を上げた。嵐の濁った思考の中から、一枚の写真が浮かび上がる。立ち上がった嵐は書斎に向かい、机の引き出しを開けた。
水族館のフォトサービスコーナーで撮った、あの写真が目に入る。嵐はそれを自分のスマホで撮影し、明日香に送った。明日香はそれを確認したのか、「ありがとう」と返す。
「これで、探せるか」
そう尋ねると、明日香は電話の向こうで頷く。
『もちろん。あたしはホテル経営の社長の娘よ? 宿泊客の情報、タクシー網、従業員ネットワークだって使える。他の宿泊施設の社長にも話を通せる。もしどこかに泊まっているなら、見つかる可能性は高いと思うわ』
それを聞いて、嵐の胸は静かに震えた。
「……ありがとう、明日香」
けれどその時、明日香が唇を開く音がした。
『その代わり、私と結婚して』
その言葉に、嵐は息を止めた。
電話の向こうは静かだった。冗談ではないのだと、すぐにわかる。嵐は目を閉じて冷たい空気を吸う。今この瞬間にも、凪がどこかで一人でいるかもしれない。まともに食事も取れていない可能性だってある。
もし、明日香の手を借りることで、凪が見つかるなら。
だがその先を考えた瞬間、嵐は言葉を失った。
凪が見つかったあと、自分はなにを望んでいる。
連れ戻して、それで終わりか。腹の子が生まれるまで面倒を見るつもりか。それとも子供が生まれて、生活が落ち着くまで支える。――全部、どこか違った。
玄関を開ければ、凪がいる。ソファにはぬいぐるみが転がっていて、凪が勉強している。夕食を作れば「いただきます」と言って、食器を洗えば隣に立つ。
そんな毎日が、いつの間にか当たり前になっていた。あれは一時的な同居ではなかった。自分はその先まで考えていた。欲しいのは、その未来だ。
初めてそう認識した瞬間、嵐は目を閉じた。
「……悪いが、その条件なら断る」
電話の向こうで、明日香が静かに息を吐く気配がした。
「俺はまだ、自分で探せる」
嵐は目を開ける。写真の中では、過去の嵐を凪が戸惑ったような顔で見つめている。
『そう、わかった。いつでも連絡ちょうだい、待ってるわ』
なぜか、いつも抑揚のあるはきはきした声は沈んでいた。違和感を抱いたのもつかのま、それきり電話は切れる。
終わったあとで、通話履歴をぼんやりと眺める。……一週間前、凪と通話した記録が残っている。掛けたら凪に繋がるのではないかと思った。けれど、目の前に置かれている凪のスマホが鳴るだけだと気付いて、嵐は指を止めた。
……凪の声が、聞きたい
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