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訣別│ハッピーバースデー

 嵐が会社についた時、三浦は珍しく嵐よりも早く出社していた。というより、嵐の方がぎりぎりだった。 「どうしたんスか」  顔を見るなりそう言われる。嵐は返事に迷った。……人手が足りない。そう思った時には、口が動いていた。 「人を探している」 「人?」 「同居人だ」  三浦が首を傾げる。 「家出ですか?」 「……そうだ。十八のオメガで、妊娠している」 「十八? ……え、妊娠?」  三浦の表情が変わる。かと思えば、目を見開いて嵐を見た。 「主任の子なんスか」  嵐は答えなかった。しばらくの沈黙ののち、三浦が恐る恐る口を開いた。 「もしかして……明日香さんとの縁談を断ったのって、その子のためですか」 「ああ」  三浦は完全に固まった。数秒後、三浦の眉間に皺が寄る。 「……好きなんスか」  嵐は迷わなかった。 「ああ」  答えてから、自分でも不思議だった。もっと前からわかっていたはずなのに、どうして今まで認めなかったのか。  三浦はしばらく黙り込む。それから困ったように頭を掻いた。 「でも、それ嵐さんになんの得があるんスか」 「得?」 「だってそうでしょう。婚約解消までして。オメガ囲うだけなら別に――」 「違う」  三浦が言い終わるより先に、声が出た。 「凪はそういう相手じゃない」  自分でも驚くほど低い声だった。三浦が息を呑む。  嵐は立ち上がった。言いようのない熱い感情が込み上げる。怒りなのか焦りなのか、自分でもわからない。 「……すまない」  そう言い残し、廊下へ出た。静かな非常階段で一人になる。窓の外には、灰色の空が広がっていた。  好きなんスか。  不意に三浦の言葉が蘇る。嵐は目を閉じた。  凪が初めて家に来た夜。ホットミルクの甘い匂いと、怯えた顔。遠慮がちな「いただきます」。  それから、いなくなった部屋。誰も使わないマグカップ。冷えたままの布団はもうずっとそのままで、凪だけがいない。  それだけで息が詰まる。 「……っ」  拳を握って、嵐はようやく理解した。けれど理解したところで、もう遅い。  どこにいるのかも、無事かどうかもわからない。  ただ一つだけ確かなことがある。  もう一度会いたい。  それだけだった。  夜、嵐はぼんやりとソファに腰掛けたまま、食事を摂る気にも、眠る気にもなれなかった。 ㅤこの時間は、いつもなら凪が勉強をしていた時間だった。わからないところがあった時には凪が振り向いて、「嵐さん」と呼んでいた。  もう、あの声は聞こえない。嵐は静かに鼻を啜った。  ……凪は、どうしていなくなったのだろう。もしかすると勉強していたのも、本当は嫌だったんだろうか。押し付けていたんじゃないだろうか。  凪がなにを考えていたのか、わからなくて戸惑う。今までなら、それでよかった。正しいことをすれば、それが正解だった。けれど凪にはそれが当てはまらない。けれど分からないままなのは嫌だった。  嵐は書斎から、凪の教科書とノートを引っ張り出す。あの子がなにを考えていたのか、少しでも知りたかった。  そんなことを考えながら凪のノートを開いた時、足元に折り畳まれた紙が落ちた。なんだろうと思った嵐は何気なくそれを拾い、広げる。 「Happy Birthday Mr.Arashi」  嵐が静かに息を吸う。次に吐き出した息は、震えていた。  凪の字だった。何度も書き直した形跡が見える。字は前よりも丁寧で、バランスも整っていた。凪が背中を丸めて、たどたどしくペンを握る姿を脳裏で想像した。  嵐は凪がいなくなった日のことを思い出す。凪は「何時に帰ってきますか」と気にしていた。中途半端に途切れた、誕生日の記憶が蘇る。 「……ちゃんと、書けてるじゃないか」  そう零した独り言は、頼りなく掠れていた。

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