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訣別│ミルクと傲慢

ㅤ風呂から上がり、ベッドに入ろうとして毛布をめくった嵐は、途中で手を止めた。  少し離れたところに畳んである、凪の布団へと振り向く。凪がいなくなってから、ずっとそのままだ。嵐はふらふらとそれに近付くとそっと布団を広げ、静かに自分の体を横たえた。布団の中に潜り込むと、石鹸とシャンプーの奥に、ミルクのような甘い香りが残っている気がした。 「……凪」  思わず呟く。  はい、と控えめで柔らかいあの返事をいつまでも待ちながら、嵐は目を閉じた。  その日はいつもよりほんの少しだけ、よく眠れた。 「……そう言えば主任が探してる子、まだ見つからないんすか?」  三浦の声に、嵐はようやく顔を上げた。 「もう一ヶ月ですよね。シェルターとか施設とか……どうでした?」 「行った」  嵐は短く答える。 「職員にも聞いた。住民にもあたった。まだ連絡はない」  三浦は気まずそうに視線を泳がせる。 「主任……その、一ヶ月見つからないってことは、今頃もう……」  そこで言葉が止まる。嵐はゆっくりと顔を上げた。 「続けろ」 「え……」 「その先を言え」  静かな声だった。三浦は青ざめ、オフィスの空気が張り詰める。  嵐は数秒だけ三浦を見つめ、それから視線を戻した。 「……いや、いい」  それ以上はなにも言わなかった。  最悪の可能性など、とっくに考えている。ただ考えていないふりをしているだけだ。 「現地を見てくる」  荷物を掴み、席を立つ。誰も引き止めなかった。  車に乗り込み、エンジンをかける。だがその前に、ふと助手席へ目が向いた。  ブランケットが置いたままになっている。凪が寒そうにしていた日に買ったものだった。  しばらくそれを見つめてから、嵐はようやく車を発進させた。  三浦の言葉が頭をよぎる。  今頃もう――  その先を想像しかけて、嵐は打ち消した。  雨の日に鳴いていた猫のことを思い出す。  あの時も大丈夫だと思っていた。誰かが拾ってくれるだろうと。  次の日にはもう鳴いていなかった。目を開けたまま、冷たくなっていた。  だから今も、自分の目で見るまでは信じない。  凪がもうこの世にいない可能性が怖くないわけではない。  だがそれ以上に、凪がどこかで一人、助けも呼ばずに耐えていることの方が恐ろしかった。  皿を割った時もそうだった。指を切って血が流れているのに、平気ですと言った。強がりではなく、本当にそう思っていた。  あれだけのものを抱えて、よく生きていたと思う。  自分ならどうだっただろう。  同じ年齢で、同じ目に遭った時に、逃げ出せただろうか。  想像もつかなかった。  嵐は再び、空っぽの家に帰ってくる。おかえりの声は聞こえてこない。だというのに、コーヒーを淹れるついでにホットミルクまで作ってしまって、嵐は笑った。もったいなくて、嵐は小さじ一杯のはちみつを入れて飲んだ。やわらかな甘さが嵐を包んでくれる。そうするうちにじわりと視界が滲んで、次第に目尻からこぼれたそれが嵐の頬を濡らした。  凪の布団に潜り込む。凪がしていたように体を丸めて、布団の中で目を閉じる。凪の匂いは、もうほとんど残っていなかった。  足りているつもりだった。  それでも足りなかったのか、と考えるのは傲慢だと分かっている。  それでも。  ――なんで、俺を置いて行った。  その日、捜索から帰ってきた嵐は眠ることも起きることもできないまま、ただぼんやりとソファで横になっていた。時計の音がやけに響く。  仕事のことなら忘れられた。家族のことも、明日香のことも。だが今は、凪のことだけが頭から離れなかった。  メロンやケーキを食べると、少し目を輝かせるところ。  ホットミルクを入れたらすぐに飲まずに、まずは匂いを嗅いで、それからマグカップで手をあたためるところ。  問題がわからない時、ペン尻を唇に当てて考えるところ。  洗濯物を干す時に、真っ先に嵐の服から干すところ。  来たばかりの時は体を丸めて寝ていたのに、最近は少しだけ口を開けて寝るようになっていたところ。  もっと、見ていたかった。  もう、見れないのだろうか。  その時、玄関から足音がした。  鼓膜がきゅうと開くような感覚に、嵐の目も自然と開く。ついで聞こえてきた鍵の回る音に嵐は思わずがばりと体を起こし、半ば足がもつれそうになりながらも玄関に向かった。 「凪!」

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