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訣別│ミルクと傲慢
ㅤ風呂から上がり、ベッドに入ろうとして毛布をめくった嵐は、途中で手を止めた。
少し離れたところに畳んである、凪の布団へと振り向く。凪がいなくなってから、ずっとそのままだ。嵐はふらふらとそれに近付くとそっと布団を広げ、静かに自分の体を横たえた。布団の中に潜り込むと、石鹸とシャンプーの奥に、ミルクのような甘い香りが残っている気がした。
「……凪」
思わず呟く。
はい、と控えめで柔らかいあの返事をいつまでも待ちながら、嵐は目を閉じた。
その日はいつもよりほんの少しだけ、よく眠れた。
「……そう言えば主任が探してる子、まだ見つからないんすか?」
次から次へとキーボードを叩いていた嵐は手を止めて、今日初めて三浦の顔を見た。
「もう一ヶ月も前でしたっけ。シェルターとか、施設とか……どうでした?」
三浦はどこか不安そうな顔でそう聞いてくる。嵐は画面に視線を戻して言う。
「行った。職員は断られたから住民にあたってみた。まだ連絡はない」
思ったよりも淡々とした、抑揚のない声だった。
三浦はどこか落ち着かない様子で嵐を見ている。
「主任……その、一ヶ月見つからないってことは、今頃もう……」
そう言われた瞬間、嵐のスイッチが切れた。立ち上がった嵐は三浦へ静かに近づく。三浦が壁側へ逃げる前に、嵐は胸倉を掴んでいた。
「……その先を言ってみろ」
低い声でそう言うと、周りの空気が凍ったのがわかった。三浦は青ざめた様子で嵐を見ている。その目が恐怖で怯えている。嵐は数秒そのまま睨んだ。しばらくして、我に返った嵐は手を離す。
「……悪い」
三浦がその場で倒れ込み、胸を押えて噎せている。オメガの新人が三浦に駆け寄り、「大丈夫ですか」と背中をさすっている。
普段なら嵐も声を掛けるぐらいはしただろう。だが、今はそんな気すらもなかった。
「……現地調査に行ってくる」
そう言って荷物をまとめ、会社を出た嵐は車に乗る。ブランケットが置いたままになっている助手席を見て、嵐はエンジンを掛けた。
車を走らせながら、三浦の言葉がふとよぎる。あの言葉の続きを想像しかけて、嵐はすぐに止まる。
最悪の可能性が、嵐の中にまったく浮かばないわけではなかった。けれどそれを考えた瞬間、嵐はすぐに打ち消した。
雨の日に鳴いていた猫のことを思い出す。
あの時も大丈夫だと思っていた。誰かが拾ってくれるだろうと。
次の日にはもう鳴いていなかった。目を開けたまま、冷たくなっていた。
だから今も、自分の目で見るまでは信じない。
凪がもうこの世にいない可能性が、怖くないわけではない。だがそれよりも、凪が自分の知らないところで、一人で耐えていることの方が怖かった。
以前、凪が皿を割って素手でかき集めようとして指を切った時、平気ですと言った。強がっている言い方ではなかった。あいつは本気でなんともないつもりでああ言っていた。
思えば、きっと、あの時から特別だった。あれだけのことを抱えて、よく生きていたと思う。自分ならどうだっただろう。同じ年齢で、同じ目に遭ったとしたら、逃げ出せただろうか。
想像もつかなかった。
凪は弱い。けれど、強い。きっと自分よりも、ずっと。だが、平気なままでいて欲しくない。
ここに来るまで、凪は誰にも助けられずに生きてきた。怖いぐらいに自分を削っているのに、ちゃんと生きようとしている。
だからこそ、もう二度と傷付いて欲しくなかった。
一人で耐えるな。痛いなら、怖いならそう言え。
……そう思うのは、結局、自分の我儘なのだろうか。
嵐は再び、空っぽの家に帰ってくる。おかえりの声は聞こえてこない。だというのに、コーヒーを淹れるついでにホットミルクまで作ってしまって、嵐は笑った。もったいなくて、嵐は小さじ一杯のはちみつを入れて飲んだ。やわらかな甘さが嵐を包んでくれる。そうするうちにじわりと視界が滲んで、次第に目尻からこぼれたそれが嵐の頬を濡らした。
凪の布団に潜り込む。凪がしていたように体を丸めて、布団の中で目を閉じる。凪の匂いは、もうほとんど残っていなかった。
足りているつもりだった。
それでも足りなかったのか、と考えるのは傲慢だと分かっている。
それでも。
――なんで、俺を置いて行った。
その日、捜索から帰ってきた嵐は眠ることも起きることもできないまま、ただぼんやりとソファで横になっていた。時計の音がやけに響く。
仕事のことなら忘れられた。家族のことも、明日香のことも。だが今は、凪のことだけが頭から離れなかった。
その時、玄関から足音がした。
鼓膜がきゅうと開くような感覚に、嵐の目も自然と開く。ついで聞こえてきた鍵の回る音に嵐は思わずがばりと体を起こし、半ば足がもつれそうになりながらも玄関に向かった。
「凪!」
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