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訣別│取引、成立
ドアが開いて、廊下がさっと明るくなる。風が吹き抜ける。しかしそこで嵐は足を止めた。
「っ、なに?」
走ってきた嵐の前で、驚いた顔をした明日香が半歩下がる。状況を飲み込んだ嵐は数秒彼女を見つめたあとで、よろよろと膝をついた。
「……明日香」
「部屋、間違えたかと思ったわよ。……上がってもいいかしら?」
嵐はわずかに頷いたのち、無言でリビングへと戻った。
明日香が家に上がる。以前とは様子の違う嵐の家に、明日香はどこか戸惑いを浮かべていた。
「……彼は?」
「まだ見つからない。どこにもいない」
明日香は黙って聞いている。
「警察にも相談した。ホテルも、病院も当たった。……もう、どうしたらいいかわからない」
そこまで言ったところで、嵐は唇を噛んだ。認めたくなかった。自分一人では、もう限界だということを。長い沈黙のあと、嵐はゆっくり顔を上げる。
「……明日香」
喉がひどく重かった。
「探すのを、手伝って欲しい」
明日香は嵐を見つめている。嵐は拳を握り締めたまま、低く続けた。それから、嵐は一枚の書類を取り出す。記入済みのそれ。差し出すと、明日香は静かに受け取って書類を一瞥する。
「嵐、あなた、これ」
「結婚の話は飲む。……うまくやる」
その瞬間、部屋が静まり返る。
「だから、頼む。凪を、見つけてくれ」
声がわずかに震えていた。嵐のその言葉に、明日香はしばらく黙っていた。やがて、静かにソファへ腰を下ろす。足を組み、嵐を見上げる目は冷静だった。
「……本気なのね」
「ああ」
「婚約を解消した時点で、なんとなくおかしいとは思ってた」
明日香は小さく息を吐く。
「でも、これで納得したわ。貴方、あの子のフェロモンに惹かれたんでしょう」
嵐は奥歯に力を込める。
「アルファなら珍しくないもの。特に、あの子みたいなオメガなら」
明日香は淡々と続ける。
「子供は産んでもいいわ。認知だってどうにでもなる」
その瞬間だった。
「違う、そういう話じゃない」
嵐の声に、明日香が目を瞬かせる。嵐は拳を握り締める。
「俺は、あいつを放っておけなかった」
「それは、あの子がオメガだからでしょう?」
「違う!」
思ったより強い声が出た。部屋が静まり返る。嵐は荒くなった呼吸を押さえるように。額へ手を当てた。
オメガだから放っておけなかったわけじゃない。妊夫だからでもない。
凪は最後まで、助けてくれと言わなかった。それなのに、誰よりも追い詰められていた。
嵐は絞り出すみたいに口を開く。
「凪は……義父に虐待されていた」
「……え?」
明日香の表情が止まる。
「妊娠したのも、そのせいだ」
息を呑む音がした。嵐は視線を落としたまま続ける。
「凪には、家も、頼れる大人も、いなかった」
明日香はもうなにも言わない。嵐はゆっくり顔を上げた。
「俺は最初、金の問題だと思っていた。堕ろしたがった理由を、ちゃんと聞きもしなかった」
自嘲みたいに口元が歪む。嵐は凪がよく撫でていたペンギンのぬいぐるみを、静かに膝の上に乗せる。
「……あいつは、自分が汚れていると思ってる。だから、俺が結婚を破棄したと知ったら、自分のせいだと思ったはずだ」
その言葉だけで、胸の奥が軋んだ。明日香はしばらく黙っていた。やがて、丁寧にルージュの引かれた唇を小さく開く。
「……あなた、本当に」
その先を、明日香は飲み込む。
「俺は……あの子に、頼って欲しい。俺のそばで、安心して笑っていて欲しいだけなんだ……」
その声は、ほとんど祈りだった。嵐の視界がぼやける。唇を噛み締めたまま立ち尽くす嵐を見て、明日香はしばらく唖然としていた。けれどすぐに居住まいを正し、嵐に向き直る。
「わかった。……探してみるわ」
明日香はぎこちなく笑う。それを見て、嵐はようやく深く息を吸うことができた。
「ありがとう」
上手く言葉になってるかは、わからなかった。
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