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キャンディ│とくべつ
◇ ◆ ◇
「オメガはアルファにうなじを噛んでもらって番になることで、番になったアルファ以外にフェロモンを出さなくなります。オメガにとって、番になれるアルファは生涯に一人だけです。これはオメガだけの、特別な性質です」
特別、と聞いた時、凪はそれが羨ましかった。
検査結果が学校で出た日、凪だけが保健室に呼ばれ、母親が迎えに来た。
「おかあさんあのね、おれ、オメガだったよ! とくべつなんだって!」
母は、笑わなかった。
帰り道、母は無言で店に入った。出てきた時、首輪を差し出した。渡された凪は受け取って、それを付けようとした。
「おかあさん、これどうやってつけたらいいの」
けれど母は振り返らない。凪は小さな手でカチャカチャとベルト部分の金具を外し、どうにか一人で付けてみせる。凪は細い指で何度も金具をいじり、外れないことを確かめてから母の方へと顔を向ける。
「おかあさんありがとう、おれ、大事にするね!」
そしてそう精一杯笑ってみたけど、やっぱり母は振り向かなかった。
食卓は静かだった。けれど母の新しい彼氏――義父だけは、凪の首のそれを見てにやにやと笑っていた。凪は笑い返した。凪がオメガであることを、一緒に喜んでくれていると思っていた。
夜、母が働きに出る。母は毎日違う香水と、少しのお酒の匂いをつけて帰ってくる。でもそんな母の匂いが、凪は好きだった。
その日、母が仕事に出たあとで義父が凪の布団に入ってきた。寒いのかな、と思っていたら、服の下に手が入ってきた。
「いやっ、やめて」
身動ぎしていると、頬を叩かれた。びっくりして固まる。なにが起きたのかわからなかった。義父は今しがた叩いたばかりの凪の頬を、そっと撫でた。
「お前、オメガなんだろ」
「う、うん……」
「オメガはな、番がいないと生きていけない。番に選ばれるのが幸せなんだ。お前はちゃんと従わないと駄目だ」
「したがう?」
「ああ。捨てられたら一人になるぞ。俺はベータだから番にはなれない。だが、いつか来た日のために練習しよう。な?」
学校の授業で聞いた内容と、少し違う。けれどそう言ったらまた叩かれそうな気がして、凪は「うん」と頷くしかなかった。
「このことは、お母さんには内緒だぞ。そしたらお母さん帰ってこなくなるからな」
「……わかった」
なにが起きているのか、わからなかった。でもお母さんが帰ってこなくなるのは嫌だった。ただ凪は布団の中で身を硬くして、それが終わるのを待った。
ㅤどこが苦しいのかも、痛いのかも、よくわからなかった。
それは数日おきもあれば、続く日もあった。呼ばれて義父の布団に入る日もあれば、義父が布団に入ってくることもあった。その時、決まって母はいなかった。
終わって服を着たあとで、義父はいつも棒付きのキャンディをくれた。甘くて、少しだけ安心する味だった。
学校へは、遅刻しながらもどうにか行っていた。
「お前、なんか臭くね?」
ㅤ最初は一人だけだった。けれどそれが、少しずつ増えていった。
そのうちに、学校にも行かなくなっていた。
その日、母が仕事に行ったあと、いつもみんなでご飯を食べるテーブルの上に仰向けになって、足を開かされていた。暗がりの中で義父がなにをしているのかは相変わらずわからなかったが、疑問に思うのはもうやめていた。義父の荒い息が、やけに耳に残った。
その時ぱち、と電気がついて、凪はびっくりした。光が目に刺さって、うまく開けられない。玄関の方で音がした。義父が動きを止める。凪もつられて動きを止めたまま、そちらを見る。
おかあさんだ。
ㅤ一瞬だけ、助かるかもしれない、と思った。けれどすぐに、頭の奥で声がする。
言ったら、帰ってこなくなる。
息が詰まる。凪は小さな手でテーブルの縁を掴む。どうしたらいいのか、わからない。
ただ、見つかってしまった、と思った。
怒られる。
そう思った瞬間、さっきまであったはずの小さな安心は、跡形もなく消えていた。
「今日、客が少ないから早めに帰らせてもらったの。……アンタの、誕生日だから」
「おかあさん」
「なのになんで? アンタを身篭ったせいで、アタシは苦労した。ようやく、幸せになれたと思ったのに」
「……おかあさ」
「アンタが誘ったんでしょ!」
金切り声を上げて、母がコンビニの袋を床に叩きつける。透明なプラスチックのケースの中で、白いなにかがぐちゃぐちゃになっていた。
おれのフェロモンは、みんなを不幸にする。
ㅤそれきり、母は帰ってこなかった。
一通りの「特別」が終わったあとで、凪はふと義父を見上げた。
「……おかあさん、帰ってくるよね?」
声がうまく出なかった。喉の奥がひりついて、息が吸えない。
「大丈夫だ、『いい子』にしてれば帰ってくる」
義父の声はやけに穏やかだった。さっき殴った時とは別人みたいに、低くて、優しい。それを聞いて、凪は一瞬だけ、ほっとする。
「それまでは俺が面倒をちゃんと見てやる」
そう言って、義父の手が頭に乗る。ゆっくりと撫でられる。指が髪のあいだをすくう。さっき叩かれた場所と同じところを、今度は優しくなぞる。体がびくりと震える。思わず目を瞑りそうになったが、凪はどうにか我慢した。
「……いい子?」
それがなんなのか、凪にはよくわからない。でも、多分、自分は違うのだと思った。だって、自分の元へはサンタさんが来たことがない。
「そうだ。言うことを聞いて、黙っていればいい。誰の種かもわからない、母親にも捨てられたガキを育ててやってるんだ」
彼はそう続ける。言葉の意味は半分も理解できなかった。ただ、捨てられたという響きだけが、やけに胸に残った。
「感謝しろよ」
頷くしかなかった。そうしないとまた叩かれると思ったし、それに、ここで言うことを聞けば、きっとお母さんは帰ってくる。
「……はい」
それから、凪は言葉を続ける。
「……おとうさん」
その呼び方を口にした瞬間、なにかが決まってしまった気がした。
それから何日、何年経ったのか、もうわからなかった。
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