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キャンディ│のこりもの
「ちっ、産むにも堕ろすにも金かかるじゃねぇか。どうしてくれるんだ、クソ」
アンモニアの匂いが立ち込める中で、金属が擦れる音が、短く鳴った。それから、検査薬を投げ付けられる。避けたらもっと殴られるから、裸になったままで受け止める。そして、検査薬は床に落ちていた包丁に当たる。
妊娠したら、優しくしてもらえるのではないかという淡い期待があった。
けれどそれはただの幻想だった。
「吐いたモンさっさと片付けろ、あと漏らしたやつもな」
「ごめんなさい……」
そう謝罪して、次に来るはずの痛みに備える。痛くない体の逃がし方も覚えた。凪は背中を丸めて一通りの暴力をやり過ごした後、しばらくのあいだ、部屋の隅で息を殺していた。殴られて、蹴られたところが熱を持っている。けれどその熱さが、いっそ寒さに耐えるには丁度よかった。
「クソッ、誰だよ……」
義父は苛立った顔のままスマホを掴む。なにをするかと思ってみていると、義父は電話を掛け始めた。
『俺じゃないです』
『お腹大きくなったらまた呼んでください』
『だって凪くんがいいって』
『ちゃんと金払いましたよね?』
笑い声が聞こえる。全部、軽い。
『またまたぁ、お義父さんの子でしょ?』
凪は床を見つめたまま動けなかった。
そこでようやく理解した。
「俺の赤ちゃん産んでね」「いい奥さんになれそう」「アルファだったら番にしたのに」「可愛いね」「好きだよ」「愛してるよ」
全部。
全部、違ったんだ。
「あ……」
その場だけの言葉だった。凪だけが、そこに未来があると思っていた。掠れた声が漏れる。涙は出なかった。指の先が静かに震えていた。
義父は最後の通話を切ると、スマホを乱暴に放り投げた。
「めんどくせぇ……どいつもこいつも使えねぇな」
その一言だけだった。凪は庇うみたいに、お腹に手を当てた。ここに、なにかがいる。でも、それは誰にも望まれていなかった。
どうしようとか、どうすればいいのかとか、考えてもわからなかった。誰も、正解を教えてはくれなかった。
吐瀉物と失禁のあとを処理して戻ると、ベッドで背中を向けた義父が言う。
「言ったらどうなるか、わかってるよな」
「……はい」
「わかったんならさっさと飯作れ」
「はい」
そう返事をして立ち上がる。殴られたところが熱い。腹の奥も、じくじく痛む。それでも、凪は台所へ向かった。
冷蔵庫を開けながら、そっと自分の腹に触れる。
温かくて、でも、どこか気持ち悪かった。
朝起きると、義父はいなくなっていた。そのうち帰ってくるだろうと思った。けれど母と同じだった。
帰ってこなくなって何日経ったか、日付けを数えるのも、もうやめていた。そのうちポストに督促状が届くようになったが、凪にはそれがなにかわからなかった。
さらに経つと電気とガスが順に止まり、とうとう水も出なくなった。食べ物もなく、しばらくは調味料で凌いでいたが、それもすぐに無くなった。
ㅤそこで凪は食べ物を探しに、外に出ることにした。
久しぶりにまともに服を着て、無機質な街の中を歩いた。最初こそ普通に働こうと考えたが、できなかった。履歴書を渡されても、なにも書けなかった。
警察も、頼れなかった。義父に連絡が行くかもしれないと思うと怖かったし、なにをされたかも、言えなかった。
いつの間にか家の鍵は変わっていて、入れなくなっていた。上着も、外で寝ていたらいつの間にか無くなっていた。
途方に暮れていると、一人の男に声を掛けられた。
男は金を出して、凪の体を欲しがった。それだけだった。
男の前で裸になっても、最早なにも感じなかった。
二度目も三度目も、同じだった。
そしてある夜、嵐という人間に出会った。
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