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キャンディ│わからないひと

 最初は怖い人だと思った。背が高い。声が低い。笑わない。けれどミスをしても凪のことを怒ったり、殴ったり、笑ったりしなかった。なにもしないまま眠れたのは、久しぶりだった。けれど、凪にとってはむしろその方がもっと怖かった。だから家の掃除と料理をすることで返すことにした。意外にも嵐は凪の料理を評価し、それから役割をくれた。  家事をしたり弁当を作ったりしているあいだ、凪は腹の中にいる小さな存在を考えなくてよかった。  体調が優れない日が何日も続いたり、トイレで吐いたりするたびに、腹の中の違和感に目を向けた。腹の中にあるそれを、凪はまだ赤ん坊だと思えていなかった。  嵐には言えなかった。言えば、この生活は終わると思った。  元々、借り物の居場所だった。  なのにそれを、自分から終わらせることができなかった。  妊娠していたことが明らかになった時、終わったと思った。殴られて、捨てられた日のことを思い出した。またそうなると思った。けれど追い出されなかった。こんな自分のために、嵐は食事を用意して、寝床も整えて、勉強まで教えてくれた。  少し前までの自分には、想像もできなかった。  目覚めたら、全部夢で終わっている姿を凪は毎朝想像した。  その日、嵐はスープを多めに作ってくれた。鍋を火から下ろして冷蔵庫に入れる前に、嵐が言う。 「痛む。昼も食え」  それだけだった。凪は困り果てた。とはいえ、たしかに腐らせるわけにはいかなかった。  お昼になって、凪はそれを温めた。器いっぱいのスープに、野菜がごろごろ入っている。贅沢だ、と思った。こんなに食べて、いいのだろうか。けれど食べろと言われたことを思い出して、凪はコンソメ味のそれを口に入れた。食べ切ると、お腹がいっぱいになる。体が温かくなる。洗濯物を畳んでいる途中で、少しふらつく。ソファに座る。少しだけのつもりで、横になる。ペンギンのぬいぐるみが置いてある。嵐が水族館で買ってくれたものだった。抱き寄せて、目を閉じる。  気付いたら夕方だった。  玄関から音がして、凪は飛び起きる。部屋どころか窓の外も暗くなっていて、凪の体は一気に汗をかいた。  ――何様だ。  ――俺よりえらくなったつもりか。  頭の奥で声が蘇る。 「す、すみません」  嵐が部屋に入って明かりを付ける。 「いや。俺の方こそ起こしたな。すまん」  凪は少し固まる。嵐は怒っていないどころか、なんでもないような顔で凪を見ていた。そしてそのままコートを脱いで、嵐は台所に立つ。  その背中を見ながら、凪は少し不思議に思っていた。  なんで、この人が謝るんだろう。 「あの……おれ、今日なにもできてなくて。手伝います」  そう言うと、嵐は一瞬だけ凪を見る。そして冷蔵庫から静かに鍋を取り出して、静かに言った。 「手伝いはいらん。休めたならいい。……晩飯は食えるか」  凪は頷く。嵐は冷凍していたご飯を出して、電子レンジに入れる。豆腐ハンバーグを温める。鍋のスープを火にかける。台所には、静かな音だけがしていた。  テーブルに料理が並ぶ。スープの器を見て、凪は一瞬手を止めた。自分の皿の方に、ソーセージが二本入っている。嵐の皿は一本だけだった。言おうとしたが、なんと言っていいかわからなかった。 嵐は黙々と食べている。スープの器からは、湯気が上がっていた。 「食べろ」  そう言われて、凪は恐る恐るスープを口に運んだ。  あたたかい、と思った。

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