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キャンディ│えらべるひと
電話帳に登録されていた誕生日とカレンダーを見た時、凪は初めて他人の誕生日を祝いたいと思った。嵐が仕事に行ってから、凪はノートを取り出した。辞書を引いて、スペルを確認して、何回も書き直して、震える字で、嵐にお祝いの言葉を書いた。
「Happy Birthday Mr.Arashi」
凪はその紙をノートから切り離すと、折って机の上に置いた。少しだけ、頬が熱かった。
でもなにかが足りない気がした。そうだ、ケーキだ。ドラマや映画で見たことがある。誕生日に、食べるやつ。
凪は駅前の洋菓子店に向かった。
お金をどうにかしなきゃと思って、繁華街で男の人に声をかけて、作ったお金が凪の手元にはあった。嵐は受け取らなかったのが、封筒の中にそのまま残っている。それを使おうと、凪は考えた。
だが店に入ったはいいものの、凪はかなり迷った。汚い体を売って得たお金で買ってもいいのか、自分の分も買っていいのか。散々考えて、小さなショートケーキを二つ買った。買ったあとで、もしかしたら嵐は甘いものが得意ではないかもしれないと思った。いちごのソルベも、メロンも、喫茶店のココアも、嵐は譲ってくれた。凪はそのことになぜ早く気付けなかったんだろうと思ったが、今更返品もできなくて、家に帰った凪はそれを静かに冷蔵庫にしまった。
それからサバ味噌も作った。生姜多めの、嵐が好きだと言ったもの。好きなおかずの時、嵐はいつもより眉が緩む。そして、食べるスピードがゆっくりになる。
凪はそんな嵐の姿を見ていると、いつもどこかほっとする気持ちになる。
準備を整えた凪は、何度も時計を見たり、カードを見返したりしていた。もう少しなにか用意した方がよかったのだろうかと思う。けれど、なにを贈ればいいのかわからない。悶々と考えているうちに、凪は嵐が帰る前まで少しだけ寝ようとソファで横になる。
その時、ふと玄関から足音がした。凪ははっとする。嵐が帰ってきた? でも足音が違う。それに、こんなに早い時間に帰ってくるのは珍しい。いつも通りと言っていたはずだ、と思い出しながら凪は身体を起こす。
「おかえりなさ――」
玄関の鍵を開けて家に入って来たのは、女の人だった。ブランド物の服を着こなし、きらきらしたアクセサリーを身につけた女性。持っている鞄は、さすがの凪でも知っているブランドだった。
突然の来訪者に、凪は何度も瞬きをする。誰だろうと思ったのもつかの間、彼女は怪訝な顔で凪を見た。
「あなた、誰?」
「あ……おれは、凪です。えっと……嵐さんの……」
おれは、嵐さんのなんなのだろう。
目を伏せたまま言葉に詰まっていると、凪の言葉を待つのを止めた彼女の視線が、ふと机へ向く。
「それ、なに?」
凪は反射的に振り返る。机の上には、折った紙が置いてある。嵐のためにと用意したものだった。
「あ……」
慌てて手を伸ばす。けれど明日香の方が早かった。ひらりと紙を開く。
少し歪んだ、何度も書き直した跡が並んでいる。明日香は一瞬だけ目を見開き、そして凪を見る。
「あなたが書いたの?」
凪は顔を真っ赤にして頷いた。
「ご、ごめんなさい」
なぜ謝ったのか自分でも分からない。ただ、見られたくなかった。
「……そう。あなたなのね」
彼女は凪を睨まない。それどころか、一瞬だけ視線が揺れた。
「思っていたより、普通ね」
むしろ、どこか納得したように、柔らかく、けれど鋭い微笑みを浮かべる。凪にはまだ、意味が理解できなかった。
「挨拶が遅れたわね。私は橘明日香。嵐の婚約者よ」
彼女は豊かな髪を手でさらりとかきあげ、それから凪の方を見た。目が合った瞬間、凪の中でなにかがすとんと腑に落ちた。
「こんやくしゃ……」
そうか、この人は嵐さんの将来の……。
美しい人だった。透き通るような肌、綺麗な髪。ふわりと香る、上品な香水の匂い。……時々、嵐のコートからしていた匂い。それから彼女の誇り高さの滲む瞳の輝きを見て、凪は納得した。むしろ、安心したまであった。そうか、これが嵐の世界なんだ。
明日香は凪を静かに見る。凪はつい腹を抑える。明日香の目が留まる。それから明日香は、綺麗にルージュの引かれた唇を開いた。
「まあ、今となっては、元、だけどね」
「え?」
「――嵐を見ていて、不思議だったの。でも、あなたを見て分かったわ」
凪は拳を握る。
「あなたという、放っておけない存在がいて、初めて嵐のアルファとしての本能は満たされている」
明日香は穏やかな声のまま続ける。
「けれど同時に、嵐は自分を削り続けているの」
「削る……?」
「……ねえ、わかってる?」
彼女は唇を震わせて、ほんの少しだけ言い淀む。
「嵐は、貴方を選んだの」
選ぶ、という言葉に違和感を覚える。なんの話か、凪にはわからなかった。
「ど、どういう……ことですか」
明日香はため息をつく。
「まさか、知らなかったの? ――あの人、婚約解消したのよ。私と。私の家のホテルとの案件も降ろされたわ」
「え……」
唇が震える。明日香の言葉に、凪は俯く。凪はそばに置いていたぬいぐるみを無意識に抱き締めた。
「いい? 嵐は今、自分の羽を一枚ずつむしって、あなたに毛布を編んであげている状態なの」
……嵐の、羽。
「……それを、私はずっと隣で見てきた」
凛としたその声が、わずかにぶれる。けれどすぐに彼女は口を噤み、それから微笑んだ。すらりとした指が項垂れた凪の顎を掬い、くいと上を向かされる。明日香は凪の目をまっすぐ見る。凪は目を逸らそうとして、でも逸らせなかった。
「だから、その毛布にくるまっているだけの人にはなってほしくないの。……あなたは、いつまでそこに甘えているつもり?」
凪の顔から、さっと血の気が引いた。
「それとも」
明日香はわずかに首を傾げる。
「あなたの方が、嵐を助けてあげる? 幸せにできる?」
幸せ、という言葉に凪はぴくりと体が反応する。けれど意味がわからなかった。
彼女の言葉を理解しようとする前に、明日香はさらに続けて言う。
「嵐は不器用な男なの。だからあなたが支えてあげて」
明日香はそれだけを言うと寝室に入り、すぐに出てきた。そしてもう一度、凪を見る。
「……体、大事になさい。冷やすといけないわ」
そして綺麗なシルエットの赤いヒールを慣れた手つきで履いて、凪の前からあっさり去って行った。
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