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キャンディ│からっぽ
静かになった部屋には、まだ上品な香水の匂いが残っている。
そんな中で、凪はまだぼんやりと熱い頭の奥で状況を必死に整理した。
明日香の姿を思い出す。彼女の自信に満ち溢れた綺麗な目が、脳裏に焼き付いて離れない。
対する自分はどうだろうか。
料理? 嵐にもできる。
家事? 同上。
身体? 嵐に拒否される。
妊娠? 誰も望んでない。
残るのはなにもない。嵐に返せるものなんて、なにも。
そんなゼロどころかマイナスでしかない自分が、嵐の人生を変えてしまった。
どうして、甘えていたのだろう。寝床、服、ブランケット、入浴剤、ぬいぐるみ、食事。全部、嵐がくれたものだ。
おれはまた、奪ったんだ。
……元に、戻さなきゃ。
そう思った時、頭の奥でなにかがぱちりと弾けた。
――アンタが誘ったんでしょ!
母の声だった。あの夜の、金切り声。床に叩きつけられた袋の中で、白いものがぐちゃぐちゃになっていた。
凪の手が、ぬいぐるみを握り締める。そうか。また、同じだ。
おれがいると、誰かが不幸になる。おれのフェロモンは、おれの存在は、誰かのなにかを壊す。それは子供の頃も、今も、変わらない。
なのに自分は、それがわかっていて、まだここにいた。
思えば、嵐が与えてくれることに甘んじていた。両手を受け皿にしたまま、それを引っ込めることができなかった。もっと早くに、拒絶すべきだった。たとえば婚約者の存在を知った時。妊娠が発覚した時。義父のことを話した時。チャンスは、いくらでもあった。
――幸せにできる?
明日香の言葉が蘇る。できるわけがない。こんな、役立たずの自分が。
けれど、凪をその気にさせたのはそれだけではなかった。それ以上に、大きな理由が凪にはあった。
嵐に婚約者がいるのはわかっていたことだ。妊娠した自分を嵐が引き受けてくれたのは、単に責任感が強いだけだ。いつかは出て行かなければいけなかった。それでも嵐の近くで、家政婦なり使用人なりでなにかで役に立って、恩返しが出来たらと考えていた。だから必死で勉強した。けれど凪は初めて明日香を目の当たりにして、到底無理だと悟った。
とても似合いの二人で、素敵だと心から思うのに、どうしてか、嫌だった。並んで歩く二人を、近くで見たくなかった。何故かはわからない。あの二人が笑っているところを想像すると、どうしてか消えてしまいたくなる。
けれどそれを口にしていい立場ではないと、凪はすぐに思い直す。
嵐の隣に立てるのは、明日香のような人だ。
こんな――自分みたいな、汚い人間じゃない。
部屋の掃除をして、嵐と一緒に食べる予定だった食事をタッパーに詰めて片付ける。ケーキの箱も、冷蔵庫の一番奥にしまった。一生懸命書いた英語のメッセージカードも、彼女を見たあとではなんの価値もない紙切れに思えてしまった。
――こんなもの。
破って捨てた方がマシかと思ったが、できなかった。凪はそれを静かにノートに挟み、書斎の本棚にしまった。
ㅤそのあとで、凪は服を着替えることにした。
クローゼットの中で、ベビー服を見つけた。嵐が一着だけ買ってくれた、とても小さな服だ。気が付けば、凪はそれを手に取っていた。
凪は風船のように丸く張っている自分の腹を見つめる。服を腹に当ててみようとして、やめる。
「……ごめんね」
そう言い聞かせて、凪はそれをそっと畳んで元の場所へしまった。
再び服を探す。けれど自分に合う服は、どこにもない気がした。
ㅤそんな時、クローゼットの奥、紙袋に仕舞われていた、嵐の家に来る前に着ていた服を取り出す。毛玉だらけのセーター、穴の開いた黒いズボン。ゴムが伸びた下着まで。嵐が丁寧に洗濯してくれてはいたが、それでも染み付いた薄汚れは消えていない。あの時より腹が大きくなったから窮屈かと思ったが、着るとやはりしっくり来た。
ふとズボンのポケットに、古くて小さい首輪が入っていることに気付いた。取り出したそれは色も落ちて、金具もくすんでいる。検査の帰り道、母が無言で買ってくれたものだった。
凪はしばらくそれを見つめたのち、自分の首に手を当てる。柔らかく高級感のある革が、うなじを守っている。首のサイズに合っていて、擦れても痛くない。
凪は少し考えて、今付けている首輪を外した。首の周りが少しだけ軽くなる。丁寧になめされた表面をそっとなぞった後、凪はそれを買った時に入っていたジュエリーボックスに収めた。
勉強している時、身の丈、という言葉を知った。自分のための言葉だと思った。
ソファのペンギンのぬいぐるみの位置をそっと直し、最後に撫でる。鍵も携帯も財布も全部、ここに置いておく。身分証を母子手帳に挟み、左ポケットに入れる。あと自分にあるのは、体を売って稼いだ金だけだ。
しわしわの封筒の感触を右のポケットに収めたまま、凪はボロボロだった靴を取り出して履く。嵐といた部屋から外に出る。
凪は、振り向かなかった。
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