48 / 92

キャンディ│やさしいあめ

 家を出た凪はしばらく歩いていた。  行く当てはなかったし、どこにも戻れなかった。凪は大きくなったお腹を抱えてとぼとぼと歩いていた。  その時、電気屋のテレビでは、春は温泉へ行こう、というCMが流れていた。湯気や山、流れる川の水面に、旅館の明かりが次々と出てくる。思わず足を止めていた。 「……温泉」  凪は思い出した。テレビで以前見た、九州の温泉街。部屋には嵐がいて、凪は勉強を終えてリビングで静かにホットミルクを飲んでいた。 『あったかそうですね』  そう言ったのは、温泉のことだけではない。南の方はあたたかいという認識がうっすらあった凪は、そう思った時、無意識にそんな言葉が零れていた。そのままぼーっと眺めていたら、嵐がソファから体を起こして言った。 『……いつか、行ってみるか』  嵐のその独り言に、凪の肩がぴくりと跳ねた。すかさず、凪の胸にゆるゆると熱いものが込み上げる。 (もしかして、おれと?)  温泉街の街並みの中、二人で浴衣を着て、ゆっくり歩いているのを想像する。けれど、なにかが変だ。すぐに違うと気付いた。 (あ……婚約者とか……)  凪の心は急速に沈む。なにを勘違いしたんだろう。一緒に行けるわけがないのに。  恥ずかしいのを誤魔化すように、マグカップを両手で包む。どうか気付かれませんようにと祈りながら、その時の凪は目を閉じた。  でも、行ってみたい。今なら、行けるかもしれない。  駅に向かって歩き出す。自分の足で、行けるところまで、行ってみたかった。嵐が追いかけて来れないところまで。  今までとは違う逃避行に、凪の心には妙な軽さがあった。  この先どうなるかは、考えなかった。  考えなければ、怖くなかった。  駅についた時、凪は路線表を見上げた。読めない字の方が多かった。凪がテレビで見た温泉街の地名は見当たらない。 「あの、温泉って、どう行けばいいですか?」 「はい?」  窓口の前をしばらく右往左往したのち、凪はカウンターの中にいる駅事務員に勇気を出してそう尋ねる。声が小さかったのか、聞き返された。恐る恐る、凪は少し声を張ってもう一度言う。 「どこの温泉ですかー?」  上手く答えられない。どこだっけ、と頭が真っ白になりそうになる。 「九州の、です」  どうにかそう答えると、間を置いて駅員が素っ気なく答える。 「由布院ですか?」 「は、はい、そこです」  テレビで言っていた地名が出てきたことに、凪はほっとした。 「品川で乗り換えして博多まで行って、そこからゆふいんの森に乗ってください」 「しながわ、はかた……わかりました、ありがとうございます」  礼を言って、券売機に向かった凪はゆっくりと切符を買う。品川という漢字はわかった。凪は他の人の見よう見まねで改札を抜けた。それから行先表示の看板を見る。品川行き、と書いてあるホームに向かい、電車に乗る。  電車に乗るのは初めてだった。音が大きくて、人がたくさんいて、逃げ場がない。……怖い。  以前、嵐が病院に行くためのバスの乗り方を教えてくれた。結局、上手く乗れなかった。狭くて、人との距離が近くて、息が苦しくなった。途中で降りてしまった時、嵐は凪を見て息をついていた。きっとバスも一人で乗れない自分に、呆れていたに違いなかった。  でも、今はもう嵐もいない。迷惑を掛けないように、一人で頑張るしかない。  そうして凪が電車の隅で手すりに掴まったまま耳を塞いで目を閉じていると、ふと誰かに肩を叩かれた。ぱっと目を開けると、年配の女性がいて、席を指さしていた。 「あなた、席座りなさいよ、ほらここ」  マダムのその言葉に、凪はすぐに頷くことができなかった。 「……い、いいんですか?」 「いいもなにも、妊娠してるなら仕方ないわよ」 「すみません……」  咄嗟にお腹を隠すが遅かった。優先席を譲ってもらっても、凪は浅く座ることしかできなかった。  駅で停車する度に、凪はアナウンスを聞いてホームの看板を何度も確認した。  品川まで来た時、凪は初めて新幹線の切符代を見た。手持ちの現金の半分以上が消える計算になる。凪は少し迷ったが、意を決して券売機の列に並んだ。買う時にもたもたしてしまって、後ろの人に舌打ちをされた。でもどうにか買うことができた。出てきた切符は少し熱を持っていて、凪はそれをそっと握り締めた。  嵐とその婚約者がいつか来るかもしれない場所に、凪は先に行く。もしかしたら嵐は覚えていないかもしれない。来ないかもしれない。けれどそれでもよかった。  ただ、あたたかいところに行きたかった。  新幹線に乗る。席は埋まっていて、空いているところはなかった。車内の隅の方、自由席のデッキ付近で、凪は発車ベルの音を聞く。  車体が動き出す。もう戻れない。手すりに掴まって、ぎゅっと目を閉じる。  胸の中で、凪は何度も「これでいい」と呟いていた。  新幹線に乗ってから、凪はじっと立っていた。しばらくすると、腹が張ってくる。凪は冷や汗をセーターの袖で拭う。周りを見るが、誰も凪を気にするような素振りはなかった。凪はそっとドア横に移動し、隠れるようにゆっくりとしゃがんだ。膝を抱えるみたいにして床に座ると、少しだけ楽になった。ふと、怒られるだろうかと辺りを見渡す。何人かが見ている。けれど体がきつくて立てなかった。そうしているうちに乗務員がやってきた。 「す、すみません」  凪は邪魔だったかと思い、立ち上がってそこから移動しようとする。だが違った。 「具合悪いですか? 体調大丈夫ですか?」 「だ、大丈夫です……」  凪はそう咄嗟に返して、目を逸らす。しかしそこでサラリーマンが立ち上がって声を掛けた。 「どこまでですか?」 「えっと……博多まで……です」 「なら僕、次の名古屋で降りるので、お兄さんよかったら座ってください」 「でっ、でも」 「気にしないでください」 「あ、ありがとうございます……」  凪は顔を赤くする。空いた席に、おずおずと座る。少しだけ周りの視線を浴びて、恥ずかしさにますます俯いた。名古屋で降りて行ったサラリーマンに何度も頭を下げて、それから凪はようやく腰を落ち着けた。  窓の外の景色が、すべてを振り切るように高速で後ろへと流れて行く。  いつの間にか、凪は眠っていた。 「お客さーん、終点ですよー」  とんとんと肩を叩かれて、凪は飛び起きた。すみません、と言いながら立ち上がった時、ふと手のひらになにか硬いものを感じた。見ると飴が握らされていた。……誰だろう。周りを見渡すが、もう誰も居なかった。  凪はその飴の袋をぎゅっと握り締めたあと、それをポケットに入れてホームへと降りた。  博多に降りた時、凪は人の多さに圧倒された。  ここはまだ由布院ではないらしい。トイレの洗面所で水を飲んだあと、次はどこに行けばいいかわからなかった凪は窓口に立ち寄り、前より少し大きい声で「由布院って、どうやって行けばいいですか」と聞いた。 「あー、最終もう出ちゃってるんで明日ですね」 「えっ」  凪は途方に暮れた。外はすっかり暗くなっている。そこで初めて、ずいぶん遠くまで来てしまったということに気がついた。 「お金、いくらかかりますか」  凪はさらに聞く。駅員が提示した額に、凪は封筒の中身をひっくり返して数える。……足りる。凪はほっと息をついた。  どこかに泊まれるほどのお金はない。何人か、コンコースの前で座り込んだり横たわってたりしている人がいた。凪はその中にひっそり紛れるように、膝を抱えて座った。コンビニで買った塩おにぎりをもそもそ食べる。人の足音が行き交う。  凪はそのまま、そこで一夜を明かした。駅の床は思ったより暖かかった。

ともだちにシェアしよう!