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あたたかい場所│残り香
「いらっしゃい。ご予約は?」
受付にいた女将が顔を上げ、にこやかに出迎えてくれる。凪は受付にとことこと近付いて、カウンター越しに声をかけた。
「あっ、あの、温泉、入りたくて。……いくらですか?」
「温泉のご利用ですね、できますよ。五百円です」
凪は受付のカウンターに行き、ポケットからしわしわの封筒を取り出して手の上でひっくり返した。女将の笑顔が一瞬固まる。凪は急いで小銭を数えた。五百円あることを確認して、カウンター越しに女将に小銭を渡す。女将はカウンターの下から鍵とフェイスタオルを差し出した。
「温泉は右手奥でございます。ごゆっくりどうぞ」
「……はい。ありがとうございます」
二つとも受け取った凪はぺこりと頭を下げ、それから静かな足取りで温泉に向かった。
やがて、オメガ専用という暖簾が見えた。凪は辺りをきょろきょろと見渡してから、逃げ込むように暖簾をくぐって中に入った。
脱衣所には人がほとんどいなかった。あちこちに貼ってある注意事項を読みながらそろそろと服を脱いで裸になる。先にいた人が、凪の腹に気付いて驚いた顔をしていた。同じオメガでも、妊夫がいるとやっぱり気になるのかと凪は改めて感じた。
転ばないように気をつけながら、凪は浴場に足を踏み入れる。湯気で烟る視界の中で温泉の全貌が微かに見える。さっきの客が備え付けの手桶で湯をすくい体にかけているのを見かけて、凪は真似した。そして洗い場で、体と髪を念入りに洗った。つま先や足の指を洗おうとしたが、腹がつかえてうまく屈むことができなかった。それでも一通り体を洗うと、全身がぴかぴかになったような気がした。
凪は浴槽にそろそろと近付いた。足首まで沈める。熱いと思いながらも、ゆっくりと腰先まで沈める。もう一段深い所まで足を進めると、静かにため息が出た。
温泉は嵐の家のお風呂よりもうんと広くて、入浴剤よりもにおいが強かった。あたたかいお湯が、凪の全身をゆっくりと包み込む。凪は背中を岩肌に預けて、ふっと力を抜いた。足や腕が浮力で少し浮く。腹の奥で、ぽこ、と小さく動いた気がして、思わず腹に手を当てた。
赤ん坊は、出てくるまでは体の中で羊水という液体に包まれているらしいと教わった。そう考えるとずっと温泉に浸かっているような感覚なのかな、と凪はなんとなく考えた。果たしてそこはあたたかくて、心地いい場所なのだろうか。そう思った瞬間、返事をするように再度腹の中からぽこっと蹴られた。
しばらく目を閉じたまま浸かっていると、歩き疲れた足も、長距離移動で強ばった体も、全部がゼロになりそうだった。
浴槽の奥にいた老人が急に歌い出す。凪は一瞬驚いたが、これだけ気持ちいいと歌いたくなる気持ちもわかる気がした。つられて凪も思わず「えーびーしー……」と小さく口ずさんだが、すぐそのあとの続きを歌うのはやめにした。
このまま指先からほどけてしまいそうだと思っていると、少しだけ眠くなった。けれどその時、妊娠中は十分まで、という言葉が頭の中に蘇った凪は、ざばりと湯の中から立ち上がる。老人の歌が止まった。
もう少しだけお湯に浸かっていたかったが、満足したと自分に言い聞かせる。それから髪をぎゅっと絞って水気を切ると、急いで温泉を後にした。
湯冷めしないように、フェイスタオルを広げた凪はそれで全身を拭く。足が拭けなくて困ったが、そのうち乾くだろうと思いながら凪は髪を念入りに拭いた。
あらかた乾いてから、凪はロッカーに入れていた服を取り出す。着ようとしてセーターを広げた途端、セーターから嗅ぎなれたにおいがした。
「……ん?」
反射的にセーターに自分の鼻を寄せる。汗や埃のにおいに混じって、嵐の家のにおいがした。
気付いた凪は少し迷ったが、どうせ薄くなる一方だと思った凪は、気にしない振りをして服を着た。
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