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あたたかい場所│口どけ
温泉を出て、ロッカーの鍵を受付に返却する。凪はぱっと顔を上げ、思い切って女将に尋ねた。
「……あの、ここ、いくらで泊まれますか」
「うちですか? 朝食付きで七千円です」
「ななせん……」
ポケットの上から封筒を触る。手持ちじゃ足りないのは中身を見なくてもわかった。凪は少し考えて、それから顔を上げて尋ねた。
「あの、アルバイトって、募集してますか」
「え?」
「えっと、お仕事……」
驚きよりも疑問の方が強いその表情に気圧されそうになる。凪はさっきよりも小さい声で言う。女将は目を細め、カウンターから凪のことをじっと見る。
「……そのお腹で?」
そう言われて、凪はお腹を隠すように手を当て、体を捻った。一気に顔が熱くなり、そのまま後ずさる。
「や、やっぱりいいです、すみません」
とうとう耐えきれなくて、凪は逃げるようにその旅館を後にした。
凪は外へと出る。あたりはすっかり暗くなっていた。昼間より少し肌寒く、けれど凍えるほどでもない。通りを歩く観光客はまばらで、ぽつぽつ店も閉まり始めていた。
凪は改めて封筒の中身を数える。紙幣はもうなくて、小銭しかなかった。どうして泊まれるかなんて聞いてしまったんだろう、と今更ながら顔が熱くなる。
どうしようと思いながらしばらく歩いたあと、足湯を思い出した凪は再度その方へ向かった。昼間、あそこはあたたかくて、少し休めた。足湯の前まで来ると、木の柵が立てられていて入れないようになっていた。観光客の姿もない。凪は少しだけそれを見て、それから目を伏せた。小さく息を吸い、そして吐き出す。やっぱり、と小さな声が漏れた。
凪はまたしばらく歩いた。そのうちに、お腹が鳴った。凪の頭には嵐のことが浮かんだ。
「嵐さん、ご飯食べたかな」
歩きながら、そんなことを考える。家を出てから、もう一日が経っていた。昨日のことが、ずっと昔のことのように感じる。
……最後ぐらい、言えばよかった。お誕生日おめでとうございますって、言いたかった。ふと思ったけれど、自分が言わなくても、周りの人が言うだろう。だから、言わなくてよかったと思った。言っていたら、もっと離れがたくなっていた気がするから。
寝る場所を探す途中で、再び甘い匂いがした。あの温泉まんじゅうの匂いだった。店主が外に出ていたのぼりを中にしまおうとしているのを見て、凪は少し足早に駆け寄った。もう一度温泉まんじゅうの値段を見る。店主が凪に気付いて、店じまいしようとしていた手を止めた。
もっと大切に使おうと思っていたけれど、残ったお金でできそうなことはかなり限られていた。さっき数えた封筒の残りを思い出しながら、凪はポケットから封筒を取り出した。
最後に、甘い物でも食べよう。
凪はカウンターに身を乗り出し、お金を出して言った。
「あの……一つ、ください」
「はいよ」
湯気の立つあたたかいまんじゅうをカウンター越しに受け取って、凪は店を離れた。
石造りのベンチを見つけて、そこに腰を下ろす。温泉まんじゅうの匂いを胸いっぱいに嗅いで、少しふーふーしながら食べる。それでも最初の一口は熱くて、あち、と思わず声に出た。それから歯先で、ほんの少しだけおまんじゅうをかじる。
温泉まんじゅうは柔らかくて甘くて、あたたかかった。嵐も気にいるだろうかと一瞬考えて、すぐに追い出した。ひと口サイズのおまんじゅうはすぐになくなってしまったけれど、食べ終えると、少しほっとした。
ベンチに座ったまま、ぼんやりと通りを眺めた。人影はまばらで、店はもうほとんど閉まっていた。辺りはすっかり暗くなって、街や人や山の輪郭がぼやけている。少しだけ、眠くなった。これからどうなるのかようやく考えたが、わからなかった。けれどもう、どうしようとも考えなかった。
その時、凪は嵐に連れられて初めて訪れた水族館の、クラゲを思い出していた。ゆらゆら漂っているだけで、どこにも行こうとしていない。なにも考えることがなさそうなそれが、凪にとっては羨ましかった。
ここにきて、自分が今までなにをしてきたか、凪はゆっくり考える。
やりたいことは、全部できてしまった。
初めてメロンを食べた。あんなに甘くてやわらかいだなんて、思わなかった。
誰かの誕生日を祝おうと思えた。自分以外の誰かが生まれてきてよかったと、初めて思った。
電車も新幹線も、一人で乗れた。昔の自分なら、切符の買い方すらわからなかった。
最後にあたたかいところに行って、温泉に入って、甘い物も食べた。テレビの中の人がすることだと思っていた。
……嵐のことも、守れた。婚約が壊れたのは、たぶん、おれのせいだ。あの人は優しいから、おれがいたら、きっと放っておけない。
だから、これでよかった。
そう思うと、少しだけ胸が軽くなる。
嵐には、たくさんもらった。温かいご飯も。ベッドも。勉強を教えてもらったことも。水族館も。自分の名前を呼ばれることも。昔の自分に教えてやりたいぐらいだった。
夢みたいだった。
あの人に拾われてなければ、公園で終わっていた命。それが少し伸びただけだ。だったらもうこれで十分かも、という考えが静かに浮かんでいた。
その時、ぽこん、と腹の奥を蹴られた。
凪は軽く目を見開く。けれども、ごめんね、と詫びることしかできなかった。
ベンチに手をついたまま、少しだけ動きを止める。ズボンのポケットの中に指が触れる。硬い感触があった。
取り出すと、小さな飴だった。新幹線の中で、誰かが握らせてくれたもの。
しばらくそれを見て、それから指先で小さな袋をいじる。
一瞬だけ迷って、凪はそっとそれを開けた。白くつやのあるそれをしばらく見つめたあと、凪は口に入れる。ふっと息が抜ける。やわらかいミルクの甘さが口の中に広がる。
飴を舌の上でゆっくり溶かしながら、凪は靴を履いた状態でベンチに横になった。硬い石でできたベンチはひんやりと冷たかった。温泉の熱を閉じ込めるように体を丸めると、少しだけあたたかくなる。
口の中には、甘さだけが残っていた。
凪は静かに目を閉じた。
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