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あたたかい場所│なぎっち

 朝起きた凪が布団を畳んで音のする方へ向かうと、女将がもう起きて台所で料理を作っていた。 「……おはようございます」  凪がそう言うと、女将は凪を見て「おはよう」と返す。 「お客さんの食事と、あとあたしらの分だよ。……アンタ、ここにある皿を洗っとくれ」 「はい」  軽く腕まくりをした時、女将の視線が凪の手の甲に止まった。皿を洗いながらどうかしたのだろうかと思っていると、凪は自分の体に残った過去の傷を思い出した。少し気まずかったが、今さら隠せるものでもなかった。なにか言われるかと思ったが、女将はなにも言わなかった。  しばらく洗い物をしつつ生ゴミなどをまとめていると、台所に金髪の青年が大きいあくびをしながら出てきた。  一瞬手を止めて彼を見ると、相手も凪を見て固まる。  凪はすぐにまた皿を洗い始めるが、青年は凪を見つめたまま、しばらくそうしていた。 「かーちゃん、そいつ誰」 「拾った」 「はぁ? 犬猫じゃねぇんだぞ」 「うるさいねナツキ、アンタもさっさと配膳手伝んな」 「……へーい」  不服そうに顔を顰め、青年は凪のことをじっと見ながら盆に載った食事をどこかへと運んでいく。あらかた片付けが終わると、女将もまたどこかへ向かう。自分の仕事が終わったのかどうかわからないでいると、女将が戻ってくる。そしてまだキッチンに残っている凪に、「こっち」と手招きした。  行くと、小さな食堂のような場所で、何人かのお客さんが食事をしていた。食堂の隅には、老婆と、さっきの青年もいた。女将はそこのテーブルにつき、凪を呼ぶ。 「なにしてる、アンタも食べ」 「はっ、はい」  凪は空いている、青年の向かいの席におそるおそる座った。ハムエッグ、ご飯、サラダ、味噌汁、漬物、ヨーグルト。家族と同じものが並んでいる。ご飯の茶碗から、湯気がふわりと上がっていた。凪はそれを見て、少しだけ喉を鳴らした。じっと見ていると、斜向かいの老婆が凪に声をかける。 「食べんのかえ? 腹ん具合が悪いんか?」 「あ、いえ。……いただきます」  凪は躊躇ったが、食べない方が怒られそうだった。  しばらくもぐもぐと食べていると、金髪の青年が再び凪をじっと見ていることに気付く。こちらを見つめる顔が、なんとなく女将に似ている。目が合った凪が思わず目を逸らすと、青年は凪を見つめたまま言う。 「アンタ、なにもんなの」 「うちの新しい手伝いだよ、文句あるかい」  凪が答える前に女将がそう言った。青年は「そうじゃねえよ」と突っ込んで、それから再び凪を見る。 「おれは……白瀬、凪です」 「凪? じゃあなぎっちだな」 「なぎ、っち?」  凪は手を止める。青年は警戒モードを緩めたのか、ふっと笑って女将と老婆に向かって顎をしゃくった。 「俺は佐倉夏樹。この旅館の息子。こっちは俺の母ちゃんで、そっちがばあちゃん。よろしくな」 「あ、よ、よろしくお願いします」  そう言うと、夏樹がまた表情を崩す。そして凪は隣の女将をちらりと見た。笑うと、やっぱり、似ていると思った。 「で、母ちゃんさー、なぎっち雇うの?」  夏樹は届いた食材を検品しながら、帳簿を付けていた女将にそう言った。お客さんの食べ終えた食器を洗っていた凪は、その話題に顔を上げる。 「あ……ご迷惑でしたら、出て行きます」 「ほっちょいたらこん子は死ぬる」  そう言ったのは夏樹の祖母だった。夏樹は台所と共有スペースになっている居間へと軽く振り返り、鋭くそう言った祖母を見つめる。 「アンタ、行くとこはあるんかえ?」  凪は祖母の問いに答えられなかった。すると女将がにやりと笑う。 「だったら決まりや」 「あ……ありがとうございます」  女将が帳簿から顔を上げ、凪を見た。 「腹ん子、今何週目だい」 「二十四週目です。……身分証と、母子手帳はあります」 「じゃあなんとかなるな。どこから来た?」 「……しながわ、あたりです」 「品川……ってことは東京!?」  大きい声にびっくりする。夏樹と母が目配せする。なにも言わないが、どういう意思疎通が交わされたのかなんとなく察する。凪にはそれがありがたくもあり、申し訳なくも思った。  皿洗いを一通り終えても、まだ仕事は残っていた。 「なぎっち、俺に敬語使うの禁止な」 「えっ」 「とりあえず服は俺の着な。作業する時はこっち」 「は、い」 「はいじゃなくて、うんな」 「はい」  夏樹が眉間を抑えた。  凪は作務衣に着替える。ふと、夏樹が凪の首に目を留めた。 「その首輪、変えねーの?」  凪ははっと首輪を抑える。自分から見えないから忘れていたが、今凪の首に巻きついているのは、手入れもされていない、役目を終えたような革だった。嵐からもらった立派な首輪を置いてきたのを思い出しながら、凪は頷く。 「うん」 「大事なモン?」 「うん。……お母さんが、買ってくれたの」 「ふーん」  客が外出したりチェックアウトしたりしたあとの部屋の掃除や洗濯を、夏樹に教えてもらいながら二人で作業する。覚えることが多くて大変だと言うと、夏樹はけらけら笑っていた。  ある時祖母が様子を見に来て、凪を見て一言言った。 「そげな腹に負担んかかるようなことするな」 「……はい」  凪は少し姿勢を変える。立ったままでは腹が張る。しゃがめば圧迫される。どうするのが正しいのか分からないまま、手を止めた。けれど祖母は凪に厳しい視線を向けている。 「ほらなぎっち、もういいって。あと俺やるから」 「でも」 「いいから座っとけ。お腹、大変っしょ」  凪は少し離れた椅子に座る。腰を下ろした瞬間、わずかに腹の奥が引き攣るような感覚があって、思わず息を止めた。手を当てると、内側から小さく動く気配があった。  湯気の立つ流し台から、皿の音が静かに聞こえる。自分だけが作業から外れていることに、落ち着かないまま視線を落とした。一通り終わる頃には、身体がきつかった。  その日の夜。風呂に入らせてもらえた凪はタオルで髪を拭きながら、居間に戻った。昨日の布団がある倉庫でまた寝るのかと思っていたら、夏樹が「こっち」と言って二階に上がらせる。四畳ほどの部屋にはベッドとクローゼット、本棚があった。 「ここ、ねーちゃんの部屋。今東京にいて。聞いたら使っていいって」 「ありがとうございま……ありがとう」  夏樹にそう頭を下げて、凪は部屋に入った。ベッドに座って腰を落ち着けると、不思議な感覚がする。  知らない土地で、働いて、受け入れてもらえている。自分がまだ生きていることに違和感がありながらも、凪は、生きてていいのかな、とも思った。  夜、凪は夏樹の部屋に呼ばれた。夏樹は部屋でゲームをしていた。一緒にやろうと誘われたが、どうしたらいいのかわからなかった。ふと夏樹はゲームをセーブして、それからぱっと明るく笑った。 「そだ、冷蔵庫にチューハイとビールあるけど、 なぎっちも飲む?」 「……飲んだことない」 「あ……そっか。妊娠してるしな。わりぃ」 「妊娠してなくても飲めない」 「なんで?」 「十八だから」 「は?」  夏樹は無言になる。凪の唇が微かに震えた。やがて夏樹がはっと小さく笑う。 「俺より年下じゃん」 「ごめん」 「なんだよ〜謝んなくていいって! ごめんも禁止!」  バンバンと背中を叩かれて、凪が少し顔を顰める。すぐに夏樹が「あ、ごめ」と言って、今度は凪の背中をさすった。

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