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あたたかい場所│ミセス

「そや夏樹、アンタ、こん子を明日田中さんとこの病院に連れて行き」  食後の片付けをしていると、自分のことが話題に上がったことに気付いて、凪はすぐに首を振った。 「あ……大丈夫です。歩いて行きます」 「片道で四十分もするんよ?」 「……平気です」  女将が呆れたように息を吐く。 「なぎっち、自分のこと頑丈だと思ってんの?」  夏樹が口を挟んだ。 「え」 「全然頑丈じゃねーからな」  凪は言葉に詰まる。じとっとした眼差しを向けたあとで、夏樹また人懐っこい顔で笑った。 「母ちゃんが言うなら送る。以上」  翌日、凪は夏樹の運転する車に乗せてもらっていた。 「なぎっちさ、甘えるの下手だよなー」 「ごめん」 「いや、別にいいんだけど。終わったら連絡しろよー」 「うん」  診察室に入ると、エコーを撮られる。心拍問題なし、発育週数相当、特に異常なし。医者の言葉を聞いて、一瞬だけ力が抜ける。  けれどすぐに医者が続ける。 「少し体重が足りてないですね。貧血気味なのもありますし。……とにかく、無理はしないでください」 「わかりました」  診察は終わりかけていた。医者がカルテになにかを書き込む。凪は立ち上がろうとして、けれど動けなかった。  言おうか迷う。胃の奥がきゅっとなる。それでも、聞かなければいけない気がした。 「あの」 「はい」  医者が顔を上げる。  凪は膝の上で手を握った。 「……もし産むとしたら、おれ一人でも……育てられますか」  診察室が静かになる。医者はすぐには答えなかった。凪の顔を見て、それから腹へと目をやる。医者は凪の目を遠く見遣ったあと、それからおもむろに口を開いた。 「育てること自体はできます。ただ、一人で育てるのは大変です」  凪は黙って頷く。そうだろうと思った。 「頼れる人はいませんか」  その質問に、凪は息を止める。やがて、静かに俯いた。 「……わかりません」  そして首を横に振った。  医者は少し間を開けて、それから言う。 「まだ時間はあります。焦って決めなくていいですよ。いずれにせよ、産むならもっと大きい病院になります。紹介状を書きますから、安心してください」 「……はい」  凪は小さく返事をした。焦らなくていい。そう言われたのに、なぜか胸の奥が重苦しかった  診察室を出て、会計する。女将が今までの給料として少し持たせてくれたお金だった。お釣りを受け取って、病院から出る。見ると、駐車場に夏樹の車が停まっていた。どうやら夏樹はずっとここで待ってくれていたらしい。 「わり、なぎっちスマホないの忘れてた」  夏樹はへらへらとそう言って、ドアを開けてくれた。 「赤ちゃん、どうだって?」 「順調だって」 「ふーん」  夏樹はドアを閉める。それきり静かになる。なにを聞いたらいいのか、夏樹もわからないのだろう。けれど彼はすぐにぱっと顔を上げ、話を切り替えた。 「なー、帰りカラオケ行かね? なぎっちなに歌うん?」 「歌は、あんまり」 「ふーん。あっじゃあこれ、俺の好きなやつ! 布教する!」  車の中で、夏樹がスマホで音楽をかける。Jポップが流れると、夏樹はどこか嬉しそうな声で凪に視線を寄越す。 「これ知ってる? ミセス」  それならわかる。嵐が教えてくれた。 「女の人?」 「違う、男だよ」  夏樹にそう言われて、凪は改めて英語は難しいなと思った。 「……いい曲だね」 「だろー。なぎっちは曲なにが好きなん?」  そう問われても、凪は流行りの曲はほとんどわからなかった。返答に困っていると、次の曲が流れてくる。 「あ……今流れてるやつ、CMの」 「え! 知ってんの? 映画のだよな、ヨネケンが主題歌のやつ。今度彼女と行く予定でさー」  夏樹がそう言って、金髪の頭を揺らしながら歌い出す。少し大袈裟に抑揚を付けて、勝手に合いの手を入れる。それがなんだか可笑しくて、凪は気付けば頬が緩んでいた。 「……ふふ」  そう声が漏れた瞬間、夏樹は歌うのをやめ、口を「あ」の形に開けたまま凪を見ていた。 「……な、なに?」  不安に思ってそう尋ねると、夏樹は歌うのをやめ、それから凪に視線を投げた。 「なぎっち、普通に笑うんじゃん」 「え? ……あ、ごめん」 「なんで謝るんだよ、ウケる」  そう言われて、思わず頬に手をやる。少しだけ熱かった。  車の中で、夏樹は流行りの曲を次々に流していっ た。  凪は窓の外を見る。山や田んぼが流れていく。  知らない景色だった。  しばらくして曲が途切れた。その隙間に、凪はぽつりと口を開く。 「ねえ、夏樹」 「んー?」  夏樹はハンドルを握ったまま返事をする。  声をかけたものの、凪は言葉を続けるのを躊躇った。聞いていいのかわからない。けれど、気になった。 「……父親が誰かわからないって、気持ち悪い?」 「は?」  夏樹が素っ頓狂な声を出した。凪は慌てて俯く。 「誰が?」 「いや、その、えっと……もし、そういう子がいたら」  夏樹は数秒黙った。信号待ちで車が止まる。  それから首を傾げた。 「別に」  とても短い返答だった。凪は思わず顔を上げる。 「な、なんで?」 「なんでって……」  夏樹は前を向いたまま続けた。 「父親がわかってても、クソみたいなやついるじゃん」 「……」  信号が青になり、車がゆっくり走り出す。夏樹は少し考えるように唸った。 「つーか、それってそんなに大事か?」 「え」 「その子が幸せかどうかの方が大事じゃね?」  凪は返事ができなかった。夏樹がくしゃっと笑う。 「俺、父ちゃんほとんど覚えてねぇけど、でも普通に育ったぞ」  凪は膝の上に置いた手を見る。腹の奥で、小さく動く気配がする。 「……そう、なんだ」 「そうそう。だから気にしすぎじゃね?」  夏樹は軽い調子で続けて、また次の曲が流れると同時にメロディを口ずさみ始めた。明るいイントロが車内に響く。  凪は窓の外を見たまま、小さく腹を撫でた。  父親がいなくても育つ。幸せになれる。……そう言われた気がした。  もちろん、簡単な話じゃないのはわかっている。  医者も、一人で育てるのは大変だと言っていた。  それでも、この子が生まれてきてもいいのなら。夏樹みたいに、いつか幸せだと言ってもらえるなら。  自分がこの世界に生まれた意味も、わかるようになるかもしれない。

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