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あたたかい場所│会えない貴方へ

「おかえり。健診どうやった?」 「はい。順調って言われました」  夏樹と一緒に帰ってきた凪がそう答えると、女将は夕食の支度をしながら「ふうん」とだけ返した。そのまま部屋へ戻ろうとすると、女将に呼び止められる。 「で、どこで産むん?」  足が止まる。 「……病院、です」 「そりゃそうだろう。どこのだい」 「診療所で……もっと大きい病院に紹介になるって」 「ほう」  鍋の蓋を開けながら、女将は続ける。 「で、金は?」  凪は返事に詰まった。  身分証はある。母子手帳もある。けれど、そういうことではないのだろう。  どう答えればいいのかわからなくて口を閉ざすと、女将は小さくため息をついた。 「なぎっち、ほんとに大丈夫なん?」  夏樹の声が飛んでくる。  大丈夫。そう言おうとして、言葉が出なかった。大丈夫って、なんだろう。自分でも、よくわからなかった。  病院で聞かれたことを思い出す。  ――頼れる人はいませんか。  あの時は答えられなかった。  けれど、本当はいた。名前を思い浮かべた瞬間、胸の奥が鈍く痛んだ。  凪は指先を握り込む。 「あの」  声を出すと、思った以上に小さかった。三人の視線が集まり、凪は少し背筋を伸ばす。 「もし……迷惑じゃなかったら。こ、ここに、置いてもらえませんか」  台所は静かになった。鍋の煮える音だけが聞こえる。凪はつい床に視線を向ける。  図々しいことを言っている自覚はあった。ここまで世話になっておいて、まだ頼ろうとしている。けれど、行く場所がなかった。 「ちゃんと働きます。子どもが生まれるまででいいので」  慌てて付け加えてから、自分の腹に手を当てた。薄い布越しに丸みを感じる。そこに、いる。だからこそ、考えなければならなかった。 「生まれたら……施設に預けようと思ってます」  凪は言葉を探すように息を吸う。 「おれじゃ、ちゃんと育てられるか、わからなくて」  誰もすぐには返事をしなかった。やがて祖母がぽつりと言う。 「まだ産まれてもおらんのに、先のこと決めんでよか」  凪は顔を上げる。 「でも」 「でもやない」  祖母は穏やかな声だった。 「アンタ、産みたいんかえ」  凪は言葉を失った。指先が、服の上から丸みをなぞる。  産みたい。  その言葉を口にしてしまったら、もう戻れない気がした。 「……わかりません」  ようやく出たのは、そんな声だった。  祖母は頷く。 「なら、まだ決めんでよか」  女将も鍋をかき混ぜながら言った。 「施設に預けるかどうかも、産んでから考えな。……育てたくもない子のことで、そんな顔せんよ」  見透かされた気がして、凪は沈黙した。女将はそれ以上追及しない。ただ、当たり前のことのように言う。 「とりあえず産まれるまではここにおり」  夏樹も横から頷いた。 「そうそう。なぎっち考えすぎなんだって」  凪は返事ができなかった。  本当は、帰りたい。会いたい。  けれど、帰ったら駄目だ。帰ったら、きっとまた甘えてしまう。だから、自分で立たなければいけない。そう思うのに、腹の奥にいる小さな命のことを考えると、胸が苦しくなった。  自分一人でも育てられるか、まだわからない。だけどちゃんと勉強して、働いて、一人でも、生きていけるようになれたら。もっと強くなれたら。  その時なら、もう一度会えるだろうか。俯かずに、顔を見て、話せるようになるだろうか。  凪はそっと目を伏せた。  やがて部屋に戻る。ふと、夏樹の姉の本棚を見る。学生時代に使っていたのか、教科書や資格、就職の本がまだ残っている。 「……」  凪は机に座る。それから教科書を手に取り、静かに開いた。

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