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あたたかい場所│異邦人
季節は少し進んで、夜はまだ少し冷えるが、昼間は上着がなくても問題なく過ごせる時期になっていた。桜が咲いたかと思えばすぐに散って、もう葉桜の季節になっていた。
凪のお腹はますます大きくなっていて、夏樹は大学の新学期へと突入していた。昼間彼がいない代わりに、地元の主婦やアルバイトが旅館の手伝いに入ることが多くなっていた。
昼過ぎ、凪が裏でスナップエンドウの筋取りをしていると、ふと来客があった。ドアの開く音と、女将の「いらっしゃい」という声が裏にも聞こえてくる。この時間から珍しい。チェックインにはまだ早いし、温泉利用者だろうか。
そう何気なく考えながらも、聞こえてくる靴音にあれっと思った瞬間、受付の方から声がした。
「すみません――ここに、凪という子がいませんか? 俺の……」
聞いたことのある男の声に、凪の手からスナップエンドウが落ちた。
「……っ」
凪の呼吸が浅くなって、音だけが鮮明に聞こえた。すぐに、人違いだと思おうとした。聞こえてきた声は前よりもずっと声は掠れていて、震えている。彼の低くて静かな声は、こんなに崩れていなかった。
落ちたスナップエンドウを拾うことができないまま、そう自分を納得させようとする。けれど、「凪」と呼ぶその声を、凪はたしかに知っていた。
男のその問いに、女将が少し間を開けて言う。
「うちにはそんな子いないよ」
女将は素っ気なく言う。凪は顔を上げ、声のする方へと視線を向ける。居間の隅で腰掛けたまま寝ていたはずの祖母は、いつの間にか起きて凪を見ていた。
「……そうですか」
男の声は静かにそう言う。けれど彼はすぐには引き下がらなかった。しばらくの沈黙のあとで、では、とさらに畳み掛けてくる。
「今晩……ここに泊まることはできますか?」
その言葉に、凪の心臓はばくばくと高鳴り始めた。無意識に背を低くする。彼の前に出ていくことができたけれど、できなかった。今出て行けば、なんのためにここまで来たのか、わからなくなる。
また、嵐を壊してしまう。
「生憎、予約でいっぱいで」
女将はさらっとそう言う。男は黙り込む。言葉を探しているのか、戸惑っているのか。凪には判別が付かなかった。
「……わかりました。お時間取らせてしまい、すみません」
声だけが聞こえる。凪は彼が去っていく足音が聞こえるたびに、胸が苦しくなった。
やがてカラカラと引き戸が開き、静かに閉まる。それでも凪が動けないでいると、女将が中に入ってきた。そこでようやく、凪も動けるようになる。さっき落ちたスナップエンドウを拾い、申し訳ないと思いながらも立ち上がってゴミ箱まで歩いて捨てに行く。
女将は凪を見ても、なにも言わなかった。嵐の来訪を知っていても凪が彼の前に出て行かなかったことに、どこか納得した様子だった。だが凪の呼吸が乱れて手が震えているのを見て、女将は息をつく。
「今日はもう休みな。あとで佐藤さん来るから、その人に任せな」
でも、と答えようとして、凪が振り返る。その矢先、先程まで凪がしていた筋取りの作業は、気付けば祖母に引き継がれていた。
「……はい」
目を伏せた凪はそう答える。音を立てないようにして二階に上がったところで、少しだけ頭を出して窓越しに通りを見下ろす。けれど、そこに彼の姿はなかった。
凪は息を吐いて、そのまま廊下にしゃがみ込む。
夏樹が帰ってきて夕飯に呼ばれるまで、凪はしばらくそこでそうしていた。
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