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あたたかい場所│壊れる音

 部屋に戻る前、凪は居間の壁にかかっているカレンダーに目をやった。ここに来てどれぐらい経つのか、計算していなかった凪はカレンダーにつけられた×印と、自分が飛び出した日を重ねる。あれは、いつだったか。……あの日は、彼の誕生日だった。  カレンダーを見ると、もう二ヶ月近く経っていることに気が付いた。 「なぎっちー、アイス食う?」  夜、夏樹がそう言って凪の部屋にやって来た。チューブに入った、カフェオレ味のアイス。二つに分けて食べられるそれを手にした夏樹を部屋に入れ、ベッドに並んで一緒に食べる。部屋に入った時から、夏樹は妙に静かだった。 「なぁ」  アイスを半分ほど食べた時、既に食べ終えていた夏樹は凪に投げかける。 「今日、なぎっちを探してるヤツがうちに来たって、かーちゃんが。……そいつ、なぎっちにヤなことしたやつ?」  夏樹の、笑うと柔らかくなる目が、いつになく鋭くなる。 「違う」 「そうなん? なぎっちをそんな目に遭わせた張本人じゃないん?」  夏樹は凪の大きくなったお腹を見る。凪は首を振る。 「違う。……あの人は、こんな体のおれを、面倒見てくれた」  凪がまた首を振ると、夏樹は食べ終わったアイスのゴミを袋に入れながら言った。 「じゃあなんで離れてったの」  夏樹のその疑問は至極当然で、凪は言葉に詰まりそうになる。あの日どうして出て行ったのか、思考を辿りながら、凪は答えた。 「おれが、相応しくないから」 「それって誰が決めたん?」  すぐにそう切り返されて、凪は上手く答えられなかった。 「……なんで、あの人、おれに会いに来たんだろう」  凪が俯くのとは反対に、夏樹は天井を見上げる。 「知らね。なぎっちに会いたかったんじゃねぇの?」 「そう……なのかな」  煮え切らない凪に、夏樹は貧乏揺すりをして、髪をかきあげながら少し早口で言う。 「会えばいいじゃん。なぎっち、なにも言わずに出て行ったんしょ。そしたら、ちょっとだけでも話せばわかんじゃね」 「でも……」 「でもじゃねーよ」  夏樹のその強い言い方に、凪は動きを止めた。手に持ったアイスは溶けて、半分が液体になっていた。 「なあ、そいつ絶対なぎっちのこと好きだって!」 「……そんなわけない」  力強い声でそう言われても、凪にはそれが信じられなかった。夏樹がまたため息をついて、声にならない声を上げて足をじたばたさせる。 「じゃあ、なんでここまでわざわざ来たんだよ」  凪はなにも言えない。そのうち、夏樹は凪の部屋を後にする。乱暴に扉を閉める直前、最後は力を緩めて音を立てないように閉めていく。扉の向こうで「おやすみ!」と少し尖った声が聞こえたが、凪はなにも返せなかった。  チューブに残ったアイスを静かに吸い込んで、凪は項垂れる。  アイスの甘さが、しばらくのあいだ喉に残っていた。  夏樹との会話のあと、凪は目を開けたまま、天井を見ていた。  嵐がここまで来た。それがどういう意味か、凪にはまだわからなかった。  そのうち、凪は目を閉じる。けれどすぐに、あの人の声が聞こえる。はっと目が覚める。体は重いのに、頭だけ起きているみたいだった。 「凪」「食べろ」「すまない」「うるさい」「もう寝ろ」「おい」「必要だ」「黙ってろ」「凪?」「……だから」「凪」  ところどころ、嵐ではない別の声が混ざり、記憶を塗り潰す。喉が引き攣って、声が出なくなる。やめてほしいのに、止めたくても、止まらなかった。  お風呂から上がった時の、下ろした髪。覗き込む時の顔。ネクタイを解く手元。転んだら危ないと、握り締めた手。絆創膏を貼ってくれた手。公園で、差し出された手。  声に混じって、一瞬だけ情景がよぎる。けれどすぐ別の記憶に切り替わる。  嵐は会いに来た。どうして。自分に会うために? 頭の奥が熱くて、わけがわからなくなる。凪は振りほどくように寝返りを打とうとする。腹の奥からぐに、と蹴られた。鈍い痛みがして、すぐに凪は現実に引き戻される。  本音を言えば、会いたい。  でも、会えば、また壊す。  現に、今だってそうだ。お仕事はどうしているんだろう。どうやってここまで来たのだろう。ちゃんと寝て、ご飯は食べているのだろうか。ふと心配になる。けれどすぐに考えるのをやめる。自分には、考える資格のないことだった。 「なぎっちのこと好きだって!」  夏樹の言葉が、頭の中で蘇る。  もし本当に、そうだったら……  ――アンタが誘ったんでしょ!  ――ら、 やじゃないだろ 、く言うな  ――きたな ……んだよ くた…たず  ――かんちが なよ、だ…が お前み…いな、好き  ――いつ でそ に甘え…… 「……っ、は、」  いくつもの声が聞こえては、凪の希望の先に立ち塞ぎ、全部を黒く潰していく。  頭から布団を被って、咄嗟に耳を塞ぐ。つま先を丸めて、ぎゅっと目を閉じる。呼吸が乱れて、息が短くなる。胸が、苦しい。 「嵐さん……」  布団の中で、誰にも聞こえないように、凪はそう小さく声にした。

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