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あたたかい場所│その影に導かれて
朝になって、顔を洗った凪が居間に降りると、朝食の用意をしていた女将が一瞬凪に視線を向けた。
「おはようございます」
凪がそう言うと、おはよう、と返ってくる。凪は女将の隣に立ち、皿を洗い出す。
「……さっきな」
女将が語りかけてきて、凪は顔を上げた。
「また、あん人がうちに来たよ。まだアンタを探しとった。……アンタみたいな目、しちょった」
「……え」
呼吸が止まって、皿を洗う手が止まった。自分みたいな目、と言われて、凪は受付の方へと体を向ける。昨日の声が勝手に頭の中で再生される。
女将は旅館の入口をじっと見つめたままの凪を見て、小さく息をついた。
「アンタ、あん人のこと嫌いなんかえ」
「……」
すぐには答えられなかった。
嫌いじゃない。嫌いになれるわけがない。けれど、その先を考えるのが怖かった。
「なら、なんで逃ぐるん」
凪は俯く。
「迷惑、だから」
絞り出した声は、自分でも情けないくらい小さかった。
女将はしばらく黙っていた。
「ふうん。……まあ、子どものことならどうにかなる」
それだけ言って、味噌汁をよそう。凪が顔を上げる。
「ここらは田舎や。困ったら誰かが手、貸しちくるる」
そして少しだけ笑った。
「でも、帰りたい場所があるなら、そっちの方をちゃんと考えんとね」
やがて夏樹が遅れて降りてくる。夏樹は凪を一瞬見てなにか言いたそうに口を開いたが、すぐに女将の手伝いに入った。
「アンタ今日学校は」
「二限から」
そんなやり取りを耳にしていると、夏樹が出しっぱなしだった水を止める。一瞬、凪の顔を見る。けれど夏樹はなにも言わなかった。
「……あの、俺」
凪は声を絞り出す。夏樹が顔を上げ、女将が横目で見る。皿を洗う音と、鍋がぐつぐつ煮える音がしている。凪は唾を飲んで、それから口を開いた。
「少し、外、見てきます」
そう言って、濡れた手を拭いた凪は勝手口に向かった。
「なぎっち、上着は?」
「いい」
夏樹の申し出を断った凪は扉を開け、つっかけを借りて外に出る。お腹に手を当て、浅く息をしながら足早に歩く。朝日が眩しい中、凪は通りへと出た。
まだ開いている店も少なく、人の通りも少ない道は、いつもと違って見えた。
姿を見たら、すぐに帰ろう。
そう決めたのに、心臓だけがうるさかった。
朝の澄んだ空気を吸いながら歩いていると。不意にお腹の内側から強く蹴られる感覚がして、凪は息を止める。それでも足は止まらなかった。気が付けば駅へと足を向けていた。
「この写真の子を見ませんでしたか」
駅前の通りまで出た時、聞き慣れた声が聞こえて、凪はようやく立ち止まった。
物陰からそっと顔を出して覗いて見ていると、温泉まんじゅう屋の前で、看板を出している店主に、声をかけている背中を見つけた。
少し痩せたように見える。けれど、その背中だけは変わらなかった。
店主との会話を終えた嵐が頭を下げる。そのまま次の店へ向かおうと歩き出した。凪は反射的に物陰へ身を引く。見つかったら駄目だと思った。
あの日、自分で決めた。嵐の人生を壊したくない。だからここまで来た。それなのに、歩き去っていく背中を見ているうちに、胸の奥がぎゅっと痛んだ。
嵐は角を曲がろうとして、少しふらついた。咄嗟に飛び出していきそうになって、凪は慌ててかがむ。
……帰る、つもりだった。けれど足が動かなかった。
帰りたい場所があるなら、という女将の言葉が頭をよぎる。
朝のコーヒーの匂い。キッチンに立つ背中。ぬいぐるみ、入浴剤。眠る時に抱き締めてくれていた夜。ホットミルクを作ってくれた手。そのすべてが、走馬灯みたいに凪の中を駆け抜けて行く。
その瞬間、嵐の背中が人混みの向こうへ消えかける。反射的に、凪の足は砂利を踏んだ。それからもう一歩。気付けば小走りになっていた。
「……っ」
呼びたいのに声が出ない。喉が震える。
それから、凪はようやく息を吸った。
「――嵐さん」
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