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再会│掴み上げた手
翌朝、嵐は温泉街を歩いていた。
ほとんど眠れていない頭の奥では、目を閉じるたびに、空になった部屋と、置いていかれた首輪が浮かんだ。
ふと、甘い匂いがした。あの子が好きそうな匂いだと考えた瞬間、胸の奥がずきりと痛んだ。
嵐は温泉まんじゅう屋の前で足を止めた。店主と目が合う。嵐は足早に近寄り、写真を差し出した。
「すみません、この子を見ませんでしたか」
店主は曖昧に首を傾げた。
「さあねぇ」
「そうですか」
頭を下げ、嵐は店から離れる。……まだ時間はある。探そう。
そう思って踵を返しかけた時だった。
「……嵐さん」
嵐は動きを止めた。
聞き間違いだと思った。
「嵐さん」
もう一度、声がした。
嵐はゆっくり振り返る。少し離れた場所に、凪が立っていた。
作務衣姿のまま、大きくなった腹を抱えている。
嵐は言葉を失った。凪も動かない。
しばらく誰もなにも言わなかった。
先に口を開いたのは凪だった。
「……ごめんなさい」
俯いたまま、もう一度言う。
「勝手に、出て行って」
嵐はそれを聞きながら、一歩だけ前へ出た。けれど、それ以上は近付けなかった。
「……生きてた」
凪が顔を上げる。嵐はしばらく凪を見つめる。震える唇が言葉を生む。
「よかった」
見つかった。そう思った瞬間、力の抜けた膝は地面に触れた。
幻想ではないかと、何度も目を擦った。
ずっと、ろくに眠れなかった。
事故に遭ったかもしれない。
誰かに連れて行かれたかもしれない。
考えないようにしていたことが、次々と頭を過る。それでも、今確かに凪が目の前にいる。
嵐は凪の姿から目を離せないまま、立ち上がれなかった。力が入らない。ただ、こちらへ向かってくる凪をじっと見つめる。
やがて凪が目の前で止まる。距離が一気に詰まって、手が伸びてくる。だがその手は、嵐に触れる直前で止まった。空中でわずかに揺れる指先を見て、嵐は息を吐く。
細くて、少し荒れていて、知っている手だった。
現実に向かって、嵐は手を伸ばす。指が触れた瞬間、そのまま手を握り締めた。触れた指先は震えていて、嵐にはそれが凪のものか、自分のものか、わからなかった。
手を離さないまま、再び凪の顔を見上げる。目が合う。濡れた石みたいな二つの瞳が、嵐を見ている。
言葉が出てこない。
凪もまた言葉を探しているようだった。嵐は凪の手をぎゅっと深く握り込む。そこにいることを、確かめるみたいに。
息だけが浅く漏れて、心臓の高鳴りと、耳鳴りが重なる。
「……凪」
名前を呼ぶ。返事はなかった。それでも、その手を離さなかった。
やがて通りのざわめきが嵐の耳に戻ってくる。
「……寒く、ないか」
ようやく出た言葉は、それだった。凪は一瞬きょとんとして、それからこくりと頷く。前よりも深く、確かな首肯だった。
「大丈夫です」
握られている手の温度は、あたたかく熱を持っていた。
「……泊まるところは」
凪が少し迷ってから言う。
「あります」
間を置いて、付け足す。
「……うちへ」
嵐は立ち上がった。そして「うち」という言葉を、頭の中でなぞる。
「行こう」
短く言って、歩き出す。
凪は一歩遅れてついてくる。けれどやはり、手は離さなかった。
そのうち、並んで歩く。さっきまで遠かった通りの景色が、今はやけに近く感じた。
凪が寝泊まりしている場所へ向かう。
凪が、生きていた場所へ。
それを確かめるように、嵐は一歩ずつ進んだ。
「おかえり」
女将がそう言った。凪は頷いて、当たり前のように返す。
「ただいま」
嵐は凪に目を留めた。その一言だけで、ここで凪がどう扱われてきたのか、どう過ごしてきたのかわかった。
「アンタ、このお客さんに部屋を用意してきておくれ」
女将にそう言われ、凪は一瞬迷うように嵐を見る。
「行け」
嵐が言うと、凪は小さく頷いた。
「……はい」
客室へと向かう凪の足音が遠ざかる。
部屋の用意ができるまで、嵐は食堂に通された。女将が向かいに座る。それから、どこからともなく金髪の青年がやってきて嵐の前に座った。動画で見た男だった。青年は向かいへ座るや否や、遠慮なく嵐を見た。鋭い目が、あの女将に似ている。
「アンタが嵐さん?」
「そうだ。……凪は、俺の話をしたのか」
どういう風に伝わっているのか、青年はしばらく見つめていたが、やがてぽつりと呟く。
「全然。……なぎっちの寝言で聞いた」
つい瞬きをした。
「寝言?」
「たまに言ってた。起こしに行く時とか」
嵐は口を閉ざした。なにを言えばいいのかわからなかった。
女将が口を開く。
「腹ん子は、アンタのか」
嵐は女将を見る。
「いえ。血は繋がっていません」
今度は女将が黙る。青年も黙る。嵐は続けた。
「ですが、俺が育てるつもりです」
食堂が静かになる。女将はしばらく嵐を見ていた。その視線を受け止めながら、嵐は目を逸らさなかった。やがて女将は小さく鼻を鳴らす。
「ふうん」
その声には、先ほどまであった警戒が少しだけ薄れていた。
その後、青年は学校へ向かい、嵐は宿泊の手続きを済ませた。
「こちらへ」
凪が、空いている部屋へ案内してくれる。布団が敷かれるのを見届けたところで、急に全身から力が抜けた。倒れ込むように布団へ横になる。遠くで凪の声が聞こえた気がした。肩を揺すられる感覚もあった。けれどもう起き上がれなかった。
もう、探さなくていい。
そう思った瞬間、意識は闇の中へ急速に沈んでいった。
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